謎が多い「風穴」研究者らがサミット 蚕糸業支えた天然冷蔵庫
天然の冷蔵庫ともいわれる「風穴(ふうけつ)」を見学しながらその謎とロマンに触れる「全国風穴サミット」が8月27日から2日間、長野県上田市の別所温泉で開かれ、全国から300人の研究者やファンが参加しました。風穴は古くから信仰の対象になったり貯蔵庫として活用され、一時は蚕糸産業に大きな影響力を持ちました。サミットでは風穴の社会的影響やクリーンエネルギーとしての価値などをめぐり論議を交わしました。 【写真】富岡の影で「産業として最終段階」 日本の製糸業の現状は?
江戸時代ごろまでは食料保存に利用
サミットは風穴の歴史などを研究している「信州上田風穴の会」と全国の実行委員会の主催で今回が3回目。長野県内を中心に各地の風穴の研究リポートも30件近く寄せられました。 研究者らの話だと、風穴は江戸時代ごろまで食料保存などに利用され、明治時代以降は国際的な重要産業となった蚕糸業を支えるため蚕種(さんしゅ・カイコの卵)を低温で保存する目的で活用されました。大正時代に冷蔵庫が普及し始めて風穴の利用は減りましたが一部では昭和時代まで利用しました。
800種と世界最多種の蚕(カイコ)を保存している九州大の伴野豊准教授(遺伝子資源開発研究センター)は講演で「風穴は全国に300か所確認されており、蚕種保存などの幅広い利用法があった。日本だけでなく1928(昭和3)年にはブルガリアでも風穴を蚕種保存に使っていたことが分かっている」と説明。 上田市の歴史研究家、阿部勇さん(元長野県立歴史館課長)は、長野県東部の佐久地方で元禄(1700年ごろ)のころに氷を貯蔵して時の藩主に献納したといった記録や、天保5(1834)年の記録に長野県安曇野の稲核(いねこき)地域(松本市安曇)で、夏に食物を風穴に入れておいたら数日間味が変わらなかった――との記載があったと紹介。明治時代以降は「上田地方に30余の蚕種用の風穴があった」としました。
当時全国トップの112か所を数えた長野県
研究者らによると、蚕糸業の隆盛で蚕種の低温保存は重要度を増し、明治時代には本格的な風穴を整備するため株式会社を設立する例も珍しくなくなりました。当時の長野県も蚕種の品質保持で他県との競争に打ち勝つため風穴の厳しい基準を設け、監督に努めました。 塩田平文化財研究所(上田市)の橋詰洋司さんがサミットに報告した資料によると、1910(明治43)年の農商務省の統計で長野県の風穴は112か所を数え、山梨(20か所)、岐阜(16か所)などを大きく上回りトップ。貯蔵していた蚕種は187万2000枚と全国の50.9%を占めていました。「特に長野県の蚕種の品質は評価が高かった」。 同じ資料で、上田市塩田平にある風穴は別所の氷沢(こおりざわ・明治4年創立)、独鈷山(とっこさん・明治10~28年創立)など5か所あり、明治時代中期には地元の蚕種家80数戸が組合を組織して氷沢の風穴を増設。風穴の整備が蚕糸産業を支える重要な事業だったことが分かっています。