東京都杉並区にある「小さな銭湯」に癒される人たち…『小杉湯となり』が人が集まる“気持ちいい空間”を作り出せたワケ
事例から浮かび上がる、新しい“よるべ”の姿
血縁家族や趣味ではない、新しいよるべ的なつながり方として、「オトハル合宿」と「小杉湯となり」の事例を見てきた。一見異なるこの2つの事例には、実はいくつも共通点があるように思う。 まず、どちらも、意欲的で能力ある自分を演出して他者と対峙する場ではない。色々なものを背負い、日々奮闘する人たちが、心地よい空間の力も借りながら普段の肩書をぬいで、居合わせた人と交流しながら前向さを取り戻すことができる場だ。 その場で交わされる会話は、相手のためを思った本音やアドバイスだったり、おすそ分けしたい暮らしの一部だったり、たわいない雑談だったりと、その内容に違いはあれど、居合わせた人たちの間で、特に見返りなど意識せず、半ば偶発的に共有され、受け取り手の気持ちを温かくする。 こうした、「普段の役割や肩書を脱いで素に戻った人間どうしが居合わせて、お互いへの善意が偶発的に交換される場所」こそが、現代社会で求められている、新しい“よるべ”の姿ではないだろうか。 そこでつながる相手は、背景が多様だったり、知り合って間もなかったりしたとしても、境遇や価値観を一定程度共有し、お互いに理解し合い、善意を交換しあえる仲間であり、広い意味で“友人”と言えるだろう。
“開き合う”よるべが持つポテンシャル
こう話すと、これらの新しい“よるべ”はどれほど強固なものなのか、と感じる方もいるかもしれない。合宿やシェアスペースで居合わせた友人に、自分が病気になったり路頭に迷ったりしたときに果たして助けを求められるのかと。 確かに、これらの場で居合わせた友人たちは、お互い何かあったときに無限に保障し合う血縁家族を代替するような間柄ではない。 ここで一歩踏み込んで、なぜ血縁家族が友人とは違い、よるべとしての強固なのかを改めて考えてみたい。ひとつの考え方として挙げられるならば、それは、よるべが血縁家族である場合、私たちはそのよるべを、いわば “所有”できているからではないだろうか。 配偶者や親子は、法的にも保証された“私だけ”の排他的・特権的な関係性だ。少し極端に言えば、“配偶者/親子である私は、他者に優先して、異なる次元で、あなたに守ってもらえる立場の人間です”と、よるべの所有者としての地位や権利を主張することもできる。 一方で、よるべが友人の場合、私たちはそのよるべの“所有”を主張することはできない。どんなに親しい友人関係であっても、“あなたは、私のよるべだ”と所有権を主張しようものなら、そのよるべはするりと逃げていってしまうだろう。 通常、友人に対して法的権利はなく、また友情は、お互いに寄せ合う感情や、友人だと認め合う認識だけを拠り所にしているからだ。 オトハル合宿や小杉湯となりで居合わせる友人関係もまた、所有できないよるべだ。ゆえに一人ひとりの自立を前提としており、所有できるよるべと比べて頼りなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、実際に体験してみると、そこでは法的な保証や強制力によらず、任意の参加者どうしが善意を交換できる“場の力”が働いており、ありがたみや喜びがある。 また、利害関係が働かない大人どうしで、いざというとき互いのスキルや知識にゆるく頼り合える関係があるだけで、漠然とした将来不安はずいぶんと軽減されるようにも感じられる。 これらの事例が示しているのは、排他的なよるべを所有することで安心したい欲求を手放した先には、囲い込まずとも、温情的に受容し合える場や友人関係は確かに存在する、ということではないだろうか。 配偶者や親子が法的にも “所有できるよるべ的関係性”であるならば、その対局にある“所有しないよるべ的関係性”は、その絶妙な距離感ゆえに、個人の自己責任と言われがちな人生を支える、新しい力になり得よう。 このような、自分だけの“囲い込むよるべ”ではない、友人どうしが“開き合うよるべ”にはポテンシャルがあるように思う。実際、約64%の人が、今以上に友人どうしがよるべになれる社会を望んでいる。 こうした新しいオルタナティブなつながり方は、様々な場所・テーマ・形態で実践され始めているが、その多くは一般に定着しているとはまだ言い難い。雰囲気や実態がよくわからないために、参加を見送っている人も多いかもしれない。 しかし、もし既存のつながり方だけではよるべなさを感じるようなら、これらの場に飛び込んでみる勇気を持つことにはきっと意味があるはずだ。
山上 早恵