交通の要衝「飯田街道」 江戸時代から存在する名古屋の古道から歴史を紐解く
全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』では、道マニアがイチオシの道を紹介。今回は、愛知県名古屋市にある"古道"を巡りました。(この記事では道情報だけをまとめてご紹介します) 【動画】「なんとか残してほしい」飯田街道の道筋を残すための驚きの方法は【7分38秒~】
物流に貢献 名古屋と長野を結ぶ「飯田街道」
江戸時代以前に造られ、今はあまり使われていない道"古道"。日本の中心に位置する交通の要衝と言われた名古屋には、城から延びていた江戸時代の古道の痕跡が今も多く残っていると道マニアは言います。 名古屋城の南を南北に走る100m道路の久屋大通(ひさやおおどおり)近くには、南東に向かって延びる斜めの道が存在。碁盤目状の道路の中で、一際目立つその道は江戸時代、名古屋城の完成から間も無く徳川家康によって造られた「飯田街道」。名古屋と信州(現在の長野県)を結び、物資の交換に大きな役割を担っていました。 「長野から山のものを名古屋に運び、海が近い熱田から長野には塩などを運んだ。人の行き来にもよく使われていた」と道マニアは言います。 「飯田街道」が通る東区には寺院が多く集まっているエリアがあり、「江戸時代、清洲城から名古屋城を中心にするときに、清州の人や寺を全部名古屋城下に移動させた」と道マニア。 そのお寺を目当てに、当時は多くの参拝客で賑わっていました。しかし、戦後の復興や都市化で大きな道路が誕生していく中、徐々に人の行き来は減っていったと言います。 また、「飯田街道」は終戦直後まで馬車が走っており、かつては馬による輸送が頻繁に行われることから、「中馬街道(ちゅうまかいどう)」とも呼ばれていたそう。物流による経済の促進に大きく貢献。さらに明治時代には、街道上に「愛知馬車鉄道」が開通。その後は路面電車へと姿を変え、人々の生活を支え続けました。
住民からの要望で公園内に残された街道
東区から千種区を経て、昭和区へと続く「飯田街道」。「道路や公園を造るために、『飯田街道』の道筋がなくなることになったが、地元の人から残してほしいという要望があり、公園の中に街道の道筋を残した」と道マニアは言います。 昭和22年、戦災復興の一環として配置が決定された川名(かわな)公園。整備に伴い一度は廃止された「飯田街道」でしたが、道を残したい地域住民の要望もあり、30回以上もの意見交換会が実施されました。 その結果、公園は「飯田街道」の姿を残しつつ、平成31年に完成。街道のカーブもそのままのルートで残され、公園の案内看板にも「旧飯田街道」と記されています。住民の思いが形となり、多くの人の憩いの場となっています。 その先は町が一望できるほど絶景で有名だった音聞山(おとききやま)を越え、山間部を通って長野県の「塩尻」へと続きます。「塩尻」の地名は、運ばれる塩の終点を表しています。 10月22日(火)午後11時56分放送 CBCテレビ「道との遭遇」より
CBCテレビ