父は空の木箱で帰ってきた。遺骨も頭髪も爪もなし…中にあったのは「徳重藤盛」と記した木札だけだった【証言 語り継ぐ戦争】
45年8月15日の昼過ぎ、地域にいた国防婦人会の役員に終戦を聞いた。戦争が終わると今度は、家族を養うための日々が待っていた。母は酒屋を営んだが、大黒柱を失った生活は苦しかった。 中学校を卒業した後すぐに、宮崎県の上椎葉ダムの建設工事に出稼ぎに行った。実家に仕送りを続けながら、なんとか学費をためた。鹿児島市内の専門学校に通い、簿記やそろばんを学んだ。18歳になった54年、進路に悩んだ際、軍服を着た父の姿が脳裏によぎった。警察予備隊が自衛隊になったばかりだった。母を支え、妹と弟を高校に行かせるため陸上自衛隊に入隊することを決めた。きょうだい2人が高校を卒業できた時は本当にうれしかった。 戦地で父親を失った家は周りでは当たり前だった。同じ境遇の同年代も多く、みんな進学や進路、生活に苦労した。日本はあれから戦争をしていないが、世界では今なお戦争が続いている。平和な世の中がどれだけ幸せなことか。戦争は兵士だけでなく、その家族にまで長年にわたって犠牲を強いる。次世代には決して同じ思いをさせてはいけない。
(2024年8月14日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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