岡田茉莉子「父親が銀幕スターと知ったのは高校2年生、奇しくも同じ道を歩むことに。芸名は、文豪・谷崎潤一郎先生が名付け親」
長年連れ添った夫・吉田喜重監督を見送って1年半。鮮やかに思い出されるのは、人見知りだった少女時代、女優としての成功とプロデューサーとしての挑戦、そして夫と過ごした幸せな時間――と、岡田茉莉子さんは言う。夫婦で映画に情熱を注ぎ続けた軌跡と現在の心境について語った(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司) 【写真】岡田茉莉子さん、18歳で映画デビュー。1歳のときに亡くなった父と図らずも同じ職業に * * * * * * * ◆戦争を生き延びて。初めて知った父のこと デビュー作『舞姫』が封切られたのは1951年。もう70年以上前のことです。私はこの世代の女優としては、わりとハッキリ自分の考えを表明するほうだったと思います。自分で作品をプロデュースするなど、独立心旺盛で、物怖じしないとも言われてきました。そのせいで風当たりも強かったし、正直、生きづらい面もありましたね。 それでもここまで女優を続けられたのは、一緒に作品を作ろうと言ってくださる方が大勢いたから。本当に感謝しています。 じつは、少女時代の私は人前に出るのも話すのも苦手。病弱で、学校に行きたがらない内向的な子どもでした。父親は私が1歳のときに亡くなり、母と、母の妹の3人暮らし。 叔母が東宝の文芸部で働いていた方と結婚し、別に暮らすようになると、母が仕事に出かけている間、私はひとりぼっち。母は、母子家庭だからとバカにされたくなかったのでしょう。とても躾が厳しく、家事はほぼ私の役目でした。 母の仕事の都合で、大阪や戦時下の上海で暮らした時期もあります。上海の日本租界(日本人居留地)のアパートで、孤独を慰めようと、母の留守中に隣の家の屋根に上がって歌ったり。 すると、どこからか拍手が聞こえてくるんです。内気ではありましたが、表現者の血が流れていたのでしょうか。母は元宝塚の男役スターで、叔母も宝塚に所属。父が誰であるかは、母は私に教えてくれませんでした。
日本に戻ったあとは、学童疎開も経験しています。高等女学校を受験するために疎開先から東京に帰ってきたのが、1945年3月10日。その夜、東京大空襲に見舞われました。幸い防空壕の中で生き延びましたが、夜が明けて外に出ると、一面焼け野原だったのです。 その後、叔母の夫が新潟市内にある劇場の支配人になったので、新潟に疎開することに。終戦後もしばらく新潟で暮らしました。 高校2年生になり、同級生と、戦前のサイレント映画『瀧の白糸』(溝口健二監督)を観に行ったときのこと。その夜、観てきた映画の話をしたとたん、母と叔母は目を伏せて黙り込んでしまったのです。 しばらくして母は、「その映画に映っていたのは、あなたのお父さんです」と言い、顔を手で覆い泣き出しました。私は翌日、一人でまたその映画を観に行きました。ええ、父を観たくて……。 父は、戦前の銀幕スターで、ハリウッド・スターのルドルフ・ヴァレンティノにちなんで「和製バレンチノ」と呼ばれた岡田時彦。なぜ母は父のことを、私にずっと隠していたのか。理由は聞いていませんが、「普通の子」として育てたかったのではないでしょうか。 とはいえ芸事はさせたかったらしく、私は6歳の6月6日から日本舞踊を習い始めたのです。
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