余剰人員3000人、赤字額300億円…分割・民営化から38年、「奇跡」の株式上場を果たしたJR九州会長が掲げた「ダイヤを磨く」経営戦略
1987(昭和62)年4月1日、公共企業体の国鉄は38年の歴史に幕を閉じ、分割・民営化のJR7社として新たなレールを走りだした。鹿児島を管轄に持つJR九州は、北海道と四国とともに鉄道事業の環境が厳しい「三島会社」と呼ばれたが、事業多角化や新幹線開業などを追い風に三島の中で唯一の株式上場を果たした。そのようなJR九州も2025年2月で38年。国鉄時代に入社し、分割・民営化後の変わりゆく組織を肌身で感じてきたJR九州の青柳俊彦会長(71)に、当時の思い出や今後の展望などを聞いた。 【写真】指宿市職員らの歓迎を受け走る観光特急「指宿のたまて箱」=2024年12月、同市十町
-国鉄からの民営化で組織はどう変わったのか。 「当時は大赤字でストライキばかりしていたが、民営化で何か面白い改革が起きると期待していた。1万5000人の社員でスタートしたが3000人は余剰人員。鉄道事業だけでも約300億円の赤字だ。昨日までの運転士が翌日は駅のホームでうどんを作った。『親方日の丸』の国鉄から自分の給料は自分で稼ぐという意識が根付いた」 -JR九州発足後、まず取り組んだことは。 「特に九州は他の交通手段に比べて鉄道の需要が低く、価値をどう高めていくかが課題だった。利用者の多い路線には積極的に増便や増結を実施し、特急車両783系も投入した。『ダイヤを磨く』がキャッチフレーズだった」 -事業を多角化した。 「元々は九州がJR各社で一番遅れていた。本州3社は鉄道事業が稼ぎ頭。四国は本州四国連絡橋ができて日本中から人が集まった。北海道は札幌市の都市開発が進み、駅ビルなどが建設された。自分たちはうどん屋から始まったが、とにかく幅広く何でもしてきた。失敗も多く味わったが、汗をひたすらかき続けた」
-九州新幹線開業にもまい進した。 「部分開業から半年後、鹿児島支社長を務めたときは『地元の人こそ新幹線を使ってほしい』と駆け回った。開業効果を最大限生み出すため、駅ビル開発だけでなく、観光面にも注力した。自治体から意見を吸い上げ、霧島や指宿に足を運んでもらうため、部分・全線開業に合わせてそれぞれ観光列車を導入した。このような積み重ねが『自分たちの新幹線だ』との思いを強くしたと思っている」 -社長時代の2016年には株式上場を果たした。 「奇跡だと思う。国も社員でさえも上場できるとは思っていなかった。国鉄改革の基本方針には『早期に完全民営化を目指す』とあり、上場で初めて立派な会社と証明することになる。最大の使命を果たせた」 -人口減の中、ローカル線の在り方をどう考える。 「鉄道事業は輸送効率はいいが、人が集まらなければコスト面でもたない。公共交通はみんなのもの。言葉の定義通り、利用者、自治体、事業者のそれぞれが負担して鉄道を残すことで、初めて『公共交通』と言えるのではないか」
-2月からは国鉄時代を超える。 「われわれは鉄道会社としての気持ちが強い。鉄道を軸にどう変わっていくのか、30年以上続く企業として見直す時期を迎えている。九州が元気じゃなければ当社も元気になれない。九州の課題を認識し、解決していくことを目指したい」 ■あおやぎ・としひこ 福岡県出身。ラ・サール中学・高校から東大工学部卒。1977年に旧国鉄入り。JR九州取締役、常務鉄道事業本部長、専務などを経て2014年に代表取締役社長。23年から現職。04年6月~06年5月には鹿児島支社長を務めた。
南日本新聞 | 鹿児島