名人芸のバント、壁際の魔術師…ジャイアンツの栄光支えたいぶし銀の職人たち
エースや4番打者だけでは栄冠を勝ち取れない。バント職人や救援投手は自己犠牲を続けて勝利をたぐり寄せ、守備の名手や代打の切り札は一つのプレーで流れを大きく変えてきた。巧みな技や献身的な姿勢で、巨人の歴史を紡いだいぶし銀の職人たちを紹介する。(敬称略)
体にしみこませた技・通算533犠打…川相昌弘
世界記録の通算533犠打を誇る川相昌弘(59)の転機は、プロ7年目に訪れた。
1989年、藤田元司監督が就任した。6年ぶり2度目の采配を振ることになった藤田監督が掲げたのは、投手中心の守りの野球だった。川相は2年目から一軍に抜てきされて以降、外野も守り、両打ちにも挑戦したが、定位置獲得には至らなかった。「もう一度、得意の守りを見直して勝負しよう。打てなくてもいい。バントやチーム打撃を徹底する」。腹をくくって臨んだシーズンで、ライバルとの競争を勝ち抜いて「2番遊撃」に定着。出場98試合、32犠打はいずれも、それまでの自己最多記録となった。
目指すべき道が定まってからは、ひたすら技を極めるのみ。打撃マシンでも「一番難しい」という内角高めの速い球を一塁線でも三塁線でも転がせるよう心がけた。「球の勢いを殺せるのはバットの芯の少し上」「芯に当たっても、野手が捕球、送球しにくいコースに転がせば走者を進められる」――。自分なりの成功の法則を見つけ、練習と試合での実践を繰り返し、体にしみこませてきた。
2000年日本シリーズ・最高の1本
技術を凝縮させた犠打がある。2000年10月27日、ダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズ第5戦。八回無死一、二塁で、5番マルティネスの代打として打席に入った。「ピンチバンター」であることは自明の打席で、投手は初対戦の斉藤和巳だ。
その初球。相手一塁手は猛然と前進し、二塁手が一塁の、遊撃手が二塁のベースカバーに入る。ここで、投手も捕れない絶妙な強さのゴロを三塁線へ転がした。三塁手が前へ出て処理せざるを得ず、二塁走者の清原和博はがら空きの三塁へ悠々と進塁。一塁走者の松井秀喜も二塁に進んだ。1球で仕留めたバントは攻撃のリズムを呼ぶ。高橋由伸のだめ押し2点打につながり、日本一に王手をかけた。試合後、長嶋茂雄監督は「川相のバントは他の選手じゃできない」と絶賛した。