【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ⑨桜町高等女学校
特攻で戦死した堀元官一さんが身につけていた手紙。差出人の桜町高等女学校(現桜町高校)の生徒名は、米側の翻訳でカトウシカコあるいはカトウシココとされていたが、ここに来て意外な日本語名が浮上した。 ■ 同窓会誌 2024年6月8日。東京都の世田谷区立平和資料館(愛称・せたがや未来の平和館)。机を囲んでいるのは桜町高等女学校の生徒だった増田陽子さん(92)、桜町高校同窓会「桜友会」の会長、佐藤勉さん(76)、資料館の諸橋晶子専門員、マーニー・ジョレンビーさん、そして筆者だ。 全員が見つめていたのは桜町高校の同窓会誌「桜友会報」。2007年1月25日付のある記事だった。 堀元さんに宛てたあの手紙の差出人を加藤春恵さんとしており、さらには手紙を日本語の文章で紹介してあった。記事の続きにはトニー・ティールさんが米駆逐艦イングラハムを調査する中で事実関係が明らかになったと説明しており、トム・パイシュさん所有の当時の写真も掲載している。つまり筆者が追ってきた内容の大半が、2007年の段階で同窓会誌に書かれてあった。 なぜ加藤春恵さんを特定できたのか。手紙の日本語文は原本なのか。分からないことが山積みの文章だった。 一方で、この記事が書かれた経緯はおおよそ推測できた。話は2024年4月、筆者が堀元家を訪れた時にさかのぼる。 筆者は堀元さんの兄、豊さんに送られた少飛甲15期生会会報「若鷲」の第33号(2007年12月31日発行)を見せてもらっていた。 その中のコラムに次のように書かれていた。
愛媛新聞社