《ブラジル》特別寄稿=天皇が編纂した世俗の流行歌集=「梁塵秘抄」図太く生きた庶民の心=サンパウロ市在住 毛利律子
佛は常におわせども、現(うつゝ)ならぬぞ あはれなる、人の音せぬ曉に、 ほのかに夢に見え給(たま)ふ。 (現代語)仏は常に傍に居られるけれど、俗世に住む我々には現実にそのお姿を見ることができないことが、しみじみと尊いことだ。人の寝静まった物音のしない夜明けごろに、かすかに夢の中にそのお姿を現しになるのである。 この歌をどこかで耳にしたことがあると思う方は多いのではないだろうか。約400年続いた平安時代(794~1180年)後期に、天皇が一般庶民の流行歌を集めて編纂した「梁塵秘抄」という歌集の中の一首である。 現在テレビで放映中の大河ドラマの主人公紫式部は、平安中期の歌人・作家・女房(女官)で、世界最古の長編小説『源氏物語』を著した。小説の舞台は天皇を囲む貴族社会で起きた、現代に通ずる政変、恋愛の顛末を綴っている。 そして、同じ平安後期、後白河天皇が、庶民の流行歌(今様歌謡)を、自ら選び編纂した勅撰集が「梁塵秘抄」であった。当時の庶民は、混乱の世情のなか、祈る以外に為す術のなかった心情を歌謡に託して、華やかで、哀感を醸す歌、あるいは神仏への深い敬虔の心を謡った。 それは、一千年を超えて今なお、読む者の胸を熱く揺さぶる歌謡集であり、一度聴いたら心に沁みて忘れられないものとなる。読む都度に、これほどまでに情趣深い歌を謡った古い日本人の尊い心に感銘するのである。
編者の後白河天皇とは
後白河天皇(1127―92年)は日本の第77代天皇(在位1155―58年)であり、次のように伝わっている。 鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により29歳で皇位を継いだ。第四皇子の呼称は通常「四の宮」であるが、今様に耽溺するあまり「今宮」と仇名され、「遊芸の親王」の名をほしいままにする。父・鳥羽院は「あれは帝位の器ではない」と苦りきったという。 その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。政治的には、その時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。 譲位後は34年にわたり院政を行い、仏教を厚く信奉して、晩年は、東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが、上皇自らが民間の流行歌謡である「今様」を愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に残るほどであった。 宮廷に一大演芸場を形成し、上流公家、宮廷女房、廷臣、下級官女、楽人、遊女、傀儡(くぐつ=人形芝居、軽業、音楽などを生業とする芸人)など、階級・性別をこえて同好の士を集め、百日、三百日、千日といった長期の今様コンサートを度々敢行。物見遊山につめかけた京都の庶民を追い払ってはならないと禁じ、御所の庭に入れて観劇を許したという。 往年の名妓・乙前を今様の師匠に迎え、今様三昧の日々を送るが、1168~9年ごろ、長年の師であった乙前が病に倒れた。心配のあまり自ら行幸し、病床で今様を歌って、自らの芸の到達の程度を披露した。 1169年、43歳で『梁塵秘抄口伝集』執筆に着手。師・乙前の死後、同年6月出家し、法皇となる。そして、毎年の熊野行幸、厳島行幸などをおこない、その土地の巫女や遊女、傀儡(くぐつ=人形芝居芸人))などと交流、歌を集めて回った。