《ブラジル》特別寄稿=天皇が編纂した世俗の流行歌集=「梁塵秘抄」図太く生きた庶民の心=サンパウロ市在住 毛利律子
第二巻の法文歌は仏教讃歌
国文学者・岡見弘によると、法文歌は仏教讃歌で、大きく仏・法・僧・雑の順に配列され、なかでも法(経典)の部は天台教学の五時教判の基準に従い、華厳経以下の主な大乗仏典の各経歌を揃えた。 特に法華経二十八品(にじゅうはっぽん)歌は百十数首で堂々たる構成である。法文歌にみえる信仰は多彩で,釈迦、阿弥陀、薬師、観音から大日如来まで多くの仏や菩薩が讃仰され、また浄土信仰も色濃く示され、歌詞の中に経典の漢語を多用し荘重な調べを感じさせている。 たとえば、まず巻二の法文歌から、幾首か、広く知られた歌を選んでみよう。一般的な庶民の言葉で綴られているので、「梁塵秘抄」の特徴である「口ずさみ」で味わうのが、作者の心に通ずるであろう。
仏も昔は人なりき われらも終(つい)には仏なり 三身仏性(さんじん・ぶっしょう)具せる身と 知らざりけるこそ 哀れなり 三身仏性とは、天台宗で説く、衆生の心中に具足する正因・了因(報身因)・縁因(応身因)の三種の仏性をいう 女人(にょにん)五(いつ)つの障(さはり)あり、 無垢(むく)の浄土はうとけれど、 蓮華し濁(にごり)に開(ひら)くれば、 龍女も佛(ほとけ)になりにけり 「女人五つの障りあり」とは、「五障」の「障」とは「地位」を意味し、女性には就くことのできない五つの地位があるという説である。たとえば『法華経』では、女性は「梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏」になれないとされている。この五障の身を抱えながら生きていた当時の女性にとって、こうした和讃や今様は光明となっていただろう。(グーグル・コトバンク) 我等(われら)が心に隙(ひま)もなく、 彌陀(あみだ)の浄土を願(ねが)ふかな、 輪廻(りんゑ)の罪こそ重(おも)くとも、 最後(さいご)に必(かなら)ず迎(むか)へたまへ 「雑」の部の世俗歌謡としては 「雑」の部には、型にとらわれない自由な歌いぶりの世俗歌謡を載せ、種々の生業を営む庶民の直截な哀歓の心情がさまざまな角度から幅広く活写されており、世に知られる《梁塵秘抄》の代表歌が多い。 登場する階層も、新興勢力の武士をはじめ農夫、樵夫、鵜飼、土器造り、物売りなどから博打、山伏など男女聖俗を問わず多岐にわたり、またこれら今様の管理者としての遊女、傀儡女(くぐつめ=操り人形の旅芸人)、巫女などの世界が歌われている。また当代流行の新風俗を歌うもの、猿楽などの民間芸能とのかかわりのあるもの、興味は尽きない。 二句神歌のうち神社歌は、和歌の形式で石清水、賀茂、稲荷などの大社・名社を讃えるが、その他の無題のものは、恋愛歌を中心に自由な歌いぶりで独自のおもしろさを持つ世俗歌謡である。 たとえば、 遊(あそ)びをせんとや生(うま)れけむ、 戲(たはぶ)れせんとや生(むま)れけん、 遊(あそ)ぶ子供(こども)の聲(こゑ)きけば、 我(わ)が身(み)さへこそ動(ゆる)がるれ 遊びをするために生まれたのか。戯れをするために生まれたのか。遊んでいる子どもの声を聞いていると、自分の身体も揺れ動いてしまう。この歌の「遊び」には、子供の遊びと、遊女との遊び、二つの意味が類推されている。 万劫年経(ふ)る亀山の 下は泉の深ければ 苔ふす岩屋に松生いて 梢に鶴こそ遊ぶなれ めでためでたの ツル・カメさまよ 富士を支える カメの万年甲(劫) 山の下には 泉湧く 苔の生すまで巌は育ち 若松さまも 枝は栄えて 葉も繁る 梢に遊ぶ ツルは千年 さてもめでたし この歌は (川村 湊訳) 烏は見る世に色黒し 鷺は年は経れども猶白し 鴨の首をば短しとて継ぐものか 鶴の足をば長しとて切るものか カラスは見れば見るほど真っ黒だ 鷺は 年をとっても いつでも白い 鴨の首が 短いからって 継ぎ足すわけにはいかないさ 鶴の足が長いからって 切れないようにね。 (解説)カラスはカラス、鴨の首と鶴の足を対比させ、それぞれの性質をナットクさせる。無理難題を吹っ掛ける為政者に対する、庶民の抵抗の歌 (川村 湊訳) 「梁塵秘抄」の歌謡の世界は、正統和歌に対して、和歌にはない独自の安らぎと解放感に満ちている。それが、現代の多くの詩人、歌人、文学者に影響を与え、いまだその魅力を失わず、また歌謡史、芸能史、宗教史、音楽史など多くの面で研究課題を残すものである、と評されている。 絶え間なく続く戦乱、貧困の中で、生きる知恵を探り、楽しみを生み出し、おおらかに図太く生きた庶民がいた。残された歌の数々から、真の叡知を教えられる。 【参考文献】梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫) 後白河法皇 (著) 川村 湊 (翻訳)