広島の人々はアメリカへの復讐心を乗り越えた…「日本被団協」ノーベル平和賞受賞が持つ「大きな意味」
世界の戦争被害者への共感へ
2016年にオバマ米国大統領が広島を訪問した際、広島市民は、歓喜して沿道に集まった。涙を流して手を振る高齢者の姿などが、目についた。外国人たちは、「謝罪を要求するのかと思ったら、泣いて喜ぶというのは、いったいどういうことなのか」、と質問した。 恐らく普通の広島市民は、自分自身では、理知的かつ論理的には、説明しないのではないかと思う。感激したから、泣いたのだ。実践者なのだから、そのことに無理はない。 ただ誰かが責任をもって、説明すべきだ。もし説明ができないと、「原爆を落として痛めつけると従順な人間に生まれ変わるので、ガザにも原爆を落とせばいい」と公言してはばからない人物が現れるのを防ぐことができない。 広島市民は、広島を訪問するオバマ大統領の姿を見て、感激した。自らが達成した奇跡の復興の意味の大きさを感じ取って、感激したのだ。 遂にアメリカの大統領ですら、広島の奇跡の復興の偉業を認め、広島に敬意を表するために、広島を訪れてきた。広島市民は、復讐を試みることなく、草も木も生えないと言われた町を奇跡的に復興させる偉業を通じて、その偉大さを、アメリカ大統領に痛感させた。その自分の町を誇りに感じさせる感覚が、そして自分と自分の先祖の苦闘が報われた、と実感する感覚が、広島市民に涙を流す感動を与えたのだ。 このような感動的な出来事を世界各地で起こせれば、世界は平和になる。残念ながら、それは簡単なことではない。簡単ではないため、世界は平和ではない。しかしだからこそ、被爆者の方々の苦闘を称賛することは、世界史的な意味を持っている、とも言える。 ガザの血を流した子どもの姿が80年前の日本と重なる、という感情は、原爆で亡くなっていった人々についてだけ言ったことではないだろう。80年前に血を流していた子どもとは、今、ノーベル平和賞を受賞した被爆者の方々のことだ。彼らは、今のガザの子どもたちの姿に、80年前の自分の姿を重ね合わせて見ているのだ。 そうだとすれば、ガザの子どもたちも、生き残れば、そして、憎しみの心を、平和を願う運動のエネルギーに変えて頑張っていければ、やがてノーベル平和賞を受賞するところまで到達することもあるはずだ。それは夢ではないはずだ。そうなってほしい。 そのように素直に願う気持ちが、被爆者の方々の心の中にある。その気持ちこそが、世界中の人々に強い印象を与えた真のノーベル平和賞受賞者の偉大さだ。 日本人は、この被爆者の方々の普遍主義的な平和主義を、見失うべきではない。むしろ称賛し、誇りに思うべきだ。そして国家としての日本は、被爆者の方々の偉業を称え、その精神を日本の平和主義のアイデンティティの根幹を象徴するものとして確立していくべきだ。 おそらくは、それによって日本は、自国の歴史に誇りを感じる国になる。普遍主義的な平和主義によって、自国を誇りに思えるのであれば、それほど素晴らしいことはない。
篠田 英朗(東京外国語大学教授・国際関係論、平和構築)