広島の人々はアメリカへの復讐心を乗り越えた…「日本被団協」ノーベル平和賞受賞が持つ「大きな意味」
被爆者の平和運動の普遍主義的な意味
被爆者は一人ではなく、過度の一般化はできない。被爆者の数だけ、異なる考えや感情があるとも言える。あるいは一人一人の心の中にも複雑な葛藤があるだろう。被爆者の数以上の考えや感情がある、とも言えるくらいだ。 しかしそれでも、被団協などが、数多くの被爆者の方々を、共通の社会運動に招き入れてきた。貴重な共通の思想を、被爆者の間に作り出してきた。その共通の思想とは、核廃絶だけでなく、さらに言えば、普遍的な人道主義にもとづく平和主義だ。そのことがわからないと、駐日イスラエル大使の発言のようなものが出てくる。被爆者は原爆の話だけをしていればいい、ということになったら、日本被団協の存在価値、そして日本の被爆者の功績は、矮小化される。結果的に、日本の平和主義も、矮小化されてしまうだろう。 私は平和構築と呼ばれる国際社会の政策領域を専門に研究しているため、世界各地の紛争(後)国を訪れたことがある。といってもジャーナリストではないので、最前線の戦場に行くわけではない。戦争を経験した国に生きる人々の様子を見て、話を聞かせてもらうのだ。そこで、どの国にも立派な方はいる、と感じる。戦争で悲惨な被害を受けながら、前を向いて未来を構想して人並外れた献身的な努力をされている方は、世界各地にいる。だが、日本の被爆者の方々のように、原爆の惨禍の後の後遺症に悩みながら、なお被爆証言活動を中心とした広範で長期にわたる平和運動を集合的に行い、仲間を誘い、訪問者に影響を与え続けている事例は、際立っている。 被爆者の平和運動を、日本人は、珍しくない光景だと考えてしまいがちだ。だが、それは誤解だ。数多くの戦争の被害者たちが、数十年の長期にわたって、極めて広範に組織的に、平和のための運動に献身的に従事する姿は、世界全体を見回して、非常に珍しい光景である。 これは世界に誇るべき日本の平和主義の文化の結晶である。 私は、広島を訪問する外国人のための研修の講師などを何度も務めたことがある。そうした機会に、必ず質問されるのは、「被爆者はアメリカを恨んでいないのか」、「被爆者はなぜ復讐ではなく平和運動をするのか」、といったことである。21世紀の対テロ戦争の時代には、いっそう切迫性が増した問いであったと言ってよい。 もちろん、被爆者の方々はもはやアメリカを恨んでいない、などとは簡単には言えない。それは一人一人の被爆者の方の心の中の出来事だ。おそらくは誰にとっても、簡単には説明できない感情のことだ。また、復讐ではなく平和運動をしている理由なども、やはり簡単に説明できるようなことではない。しかし、いずれにせよ、被爆者の方々は、実践してきたのだ。 被爆者の方々は、平均的な日本人などと比べたら、圧倒的に数多く、外国人と接してきている。なぜ平和運動をするのか、という問いに直面する機会を経験してきている。そのため、被爆者の方々は、平均的な日本人が驚くくらいに、国際的であり、普遍主義的な平和主義を信じている。自分たちの平和への思いが、世界各地から集まってきた訪問者たちの平和への思いと、共鳴していくものであってほしいと、心から素直に願っている。 われわれ日本人が、日本被団協のノーベル平和賞受賞で理解しておくべきなのは、この被爆者の方々の活動の世界の人々に訴えかける普遍主義的な意味である。