広島の人々はアメリカへの復讐心を乗り越えた…「日本被団協」ノーベル平和賞受賞が持つ「大きな意味」
被爆者の活動は被爆者が作ったもの
被爆直後から被爆者の平和運動があった、と考えるのは、間違いである。たとえば、「広島平和記念都市」構想を推進して広島の復興の立役者となった戦後直後の初代公選広島市長の濱井信三氏の政策に、当初は多くの広島市民は冷淡だった。「平和よりも、まず食べ物、住居、そして仕事をくれ」、というのが、切実な思いだったからだ。たとえば、今では当たり前のような広島の観光資源になっている原爆ドームも、根強い反対論のために二十年にわたる時間をへて、ようやく保存が決まった。長崎では、浦上天主堂は、いち早く解体された。 広島で平和記念公園が建設されはじめ、その目の前に「100メートル道路」が建設され始めたとき、市民は一様に批判的だった。そのときに流れた噂は、道路は実はいずれアメリカに復讐を果たすために使う飛行場の滑走路だ、というものだった。その真意を公に明らかにできないために、道路であると偽っている、と。そのような噂が流れるくらいに、戦後直後の広島の人々にとっては、復讐こそが、共通の心情であった。 原爆投下後、勝ち誇るアメリカ人たちを横目で見ながら、広島に生きた人々は、草も木も生えないと言われた土地に残った。多くの人々が広島を離れ、放射能汚染の偏見を恐れて違う町の出身だと偽り、違う町で暮らしていった。それでもなお先祖伝来の土地に残った人々は、強い思いを持っていた。時には、訪問者にも、恨みの視線を送ることもあったかもしれない。 だがある被爆者が、私に語ってくれたことがある。わざわざアメリカから広島に来るような訪問者は、平和に関心を持って訪れてきた人たちだ。彼らに罪はない。それどころか、共に平和を望んでいくべき仲間だ。そうした気持ちから、外国人に向けた証言活動も行われていった。そのようにして、やがて人々は、アメリカへの復讐心を、平和を願って奇跡の復興を果たす、という目標に置き換えて、努力を続けていくようになった。 それにしても、被爆者の方々が、現在われわれがよく知る平和運動の文化を確固たるものとしていくまでには、長い時間と、多くの人々の構想と努力と、そして一人一人の被爆者の方の葛藤とが、必要だった。 今日、世界中で知られている被爆者の方々の普遍主義的な平和運動は、被爆者一人一人の苦悩と努力の積み重ねの上に出来上がったものである。決して、原爆が落とされて、機械的にできあがったようなものではない。もしわれわれ日本人が、原爆を落とせば、その後に平和都市が生産される、などといった安易な話を真に受けてしまったら、ガザに核兵器を落とせと主張するイスラエルの極右政治家の発言を否定できなくなる。 原爆が落とされたから平和運動が生まれたのではない。原爆が落とされたにもかかわらず、平和運動が生まれたのだ。 その苦闘が、ノーベル平和賞に値する水準まで到達したことについては、日本は、国家として、称揚をするべきである。そして国家のアイデンティティの象徴としての位置づけを、確立していくべきであろう。