【連載】三浦瑠麗が「夫婦」のあり方について問う新連載「男と女のあいだ」がスタート #1 夫婦は何のためにあったのか
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏。夫婦にまつわること、男女にまつわることをご自身一人になってから初めて語るエッセイ「男と女のあいだ」の連載がスタートします。 【写真】三浦氏がかつて夫婦で住んでいた部屋 なぜ男と女はすれ違うのかーー。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったという三浦氏。ご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆくエッセイです。「男と女のあいだ」第1回は、夫婦の関係性についてお届けします。 ■#1 夫婦は何のためにあったのか ある日、夫が帰ってこなかった。そのタイミングはわたしよりもメディアが事前の情報リークで詳しく知っていたようで、朝、記者たちが会社前に詰めかける光景というのを初めて見たものだから吃驚(びっくり)はしたものの、やはり数時間後に身柄が拘束されたという一報をメディアの速報で知り、そうか、そういうものなのだなという受動的な感想しかなかった。 何もわかっていない人に「わかりません」とわざわざ言わせるのがニュースの作り方なのだというのも、事実として知ってはいたが、押しかけて来た番組レポーターにマイクを向けられたことで初めて経験した。わたしは本人ではないし、本人自身が何もメディアに話すなと釘を刺されていた以上、二度、三度同じことを聞かれても同じようにしか答えようがない。沈黙は雄弁ではない。それが自分にとって不利であることは分かっていたが、拘束されている人がいる以上、部外者が口を開いて不用意に検察を刺激することは避けたかった。 むしろ、わたしは事件に一切関係していないのだから、詳しい情報があるなら知りたいのはこちらの方だった。マスコミは、事件について夫の弁護士にきちんと取材してそれを掲載することへの興味は薄かった。あとから聞いたところでは、会社の取引先など方々へ、わたしが何か関係していないかだけを聞き回ったのだという。関係していないと見るやマスコミは関心を失い、憶測を何も訂正しないまま潮が引くようにいなくなった。そして、夫には「名前」が与えられていなかった。わたしの夫であるという他には、世間に意味合いを持たない人だと考えられたのだろう。 ◆ 現在進行中の裁判についての意見を述べるつもりはない。ただ、裁判が進んでいく中でわたしにもその記録を見る機会が与えられたことで、はじめて資料にあたり、法廷で争われている法的な論点が何なのかをきちんと理解することができた。逮捕前、任意聴取に応じていた彼から口頭で概要の説明を受けたときと、核となる論点はそれほど異なるものではなかったが、周辺事実の多くははじめて目にすることだった。わたしのよく知る彼の貌(かお)もあれば、知らない貌もあった。人は多面体である、と文藝春秋に当時語ったことそのままではあるのだが、21年間共に過ごしてきた人のことを受け止めるつもりはあっても、その時々において胸がつかえる気持ちはもちろんあった。わが国における否認事件では「人質司法」と呼ばれる先進各国で他に類を見ない長期拘留が圧倒的多数を占めるが、元夫の拘留が1年3ヶ月に及んだことも、これまでのわたしの人生経験ではよくわかっていなかったこの国の新たな貌だった。 かつて夫であった人についてわたしが口を開いても、どのみち公平な意見になりはしないだろう。わたしの性格からして、相手の立ち居振る舞いに対する期待も高かろうし、反対にしんみりとした同情もある。 トラブルの存在を知ったときに、何らかの「民事」トラブルであると思っていたわたしは、弁護士にちゃんと相談するようにということと、とにかく早く和解して解決してくれとしか言わなかった。だが、刑事は民事のように両者痛み分けができる問題でもない。素人のわたしが助言してどうにかなることでもなかろう。 どうにもできない以上、夫がいなくなった後に苦しんだとすれば、その結果がどうなるかではなかった。さらに言えば、自分の身に降ってきた中傷がその中心を占めるわけでもない。むしろ、長年傍らに寝ていた人がそのような意味合いを持ちうるトラブルをここ数年静かに抱えていたということの重さが、だんだんと芯に堪えるように身に染みてきたことだった。そこまで分かってあげられなかった自らの不明を恥じたというのもある。 身内に不祥事が起きるというのは、争われている結果がどう転ぶにせよ恥ずかしいことであるのは当たり前で、はじめはあまりに無防備な自分のバカさ加減に呆れてしまった。むしろ、このような事態が起きうるかもしれないということをまったく考えなかった自分の愚かしさに腹が立った。人一人が突然いなくなるというのはけっこうな影響があるもので、半年ばかりは忙しかった。その後も、舅が急に亡くなったことで葬儀や家の整理などに追われた。 少し落ち着いてきたころからだんだんと考えるようになった。自分が咄嗟(とっさ)に感じた愚かしさとはいったい何だったのだろうか、と。愚かしさは、人をすぐ信じてしまう質のわたしの無防備さに向けられたものなのか。 彼の会社の元従業員が、退職後も違法アクセスによりわたしと娘のスケジュールを入手していたことを自ら認めたのも、裁判の過程を通じてだった。気付いた時は既に遅く、漏洩した情報により、その後半年間ありとあらゆるプライベートな場での尾行や隠し撮りが続いていた。 だが、こうした物事はすべて済んだことで、一つの具体例でしかない。夫婦関係を解消するに至った核心は何かといえば、それはやはり、はじめて見る人のように改めて夫を見たことだろう。 彼自身の起こした問題であるとはいえ、不憫だという気持ちが今に至るまで消えたことはない。20年来の友人として見捨てるつもりもない。先日、ガリガリに瘦せ細って帰ってきた姿を見た時はさすがに胸を衝かれた。とはいえ、互いに独立した個人だ。子どものようにはいかない。ましてや、男性というのはこちら女性の側からすると心情がよくわからないところがある。 それでも、元夫婦であれば説明はまるでいらないのか。そうではないだろう、という気持ち。あるいは、自分がすでに人生のなかで十分に越えてきたと思っていた崖をふたたび前にして立ち、これまで共に越えてくれたはずの相手をふと見たら、彼は全然別の時空にいた、というようなことだろうか。 夫婦は一心同体ではありえない。それを恰(あたか)もそのように見せかけ、もやい綱で結びつけることで夫婦という船は航行している。そのもやい綱が切れたときに、わたしは夫の不在の中で結婚というものの意味に向き合うことになった。 結婚についてはこれまでいろいろな所で語ってきたし、考えてきた。だがその多くは、結婚生活を通じて考えた「後付け」である。22歳で結婚したわたしに経験値があったわけでもなければ、深い考えもない。ただ親を見ていて、結婚というのは相手に尽くすことであり、子どもが生まれればその子に尽くすことであるという漠然とした考えはあった。そのかわり、親からの独立と自由が手にできるのだと。 若くして結婚するというのは、魔除けにもなった。面倒くさい事態に巻き込まれないこと。誤解されないこと。そう考えてみると、たしかにわたしの結婚には自衛の意味が大きかったような気がする。親に頼らず自分で奨学金を借りて留年したうえで、好きな大学院に進むこと。異性に煩わされないこと。そのときのわたしはというと、未ださまざまな後遺症を抱えていた。思春期特有の母親への感情的な依存、性被害をめぐるトラウマ、そこからくるしばしば衝動的な行動。その意味で、夫はわたしにとって安全な波止場であると感じたのかもしれない。 そして21年が過ぎた。そのあいだにさまざまな楽しみを共にし、支え支えられ、子どもを二人生んで一人を育てた。その子がわたしの人生の意味の大半を占めている。子の父親である以上、この人を選んだ後悔というものはない。わたしのことが好きなのだということに疑いはなかったし、妬み嫉みなどで足を引っ張ることもなかった。むしろ仕事を積極的に応援してくれたことを感謝している。趣味が家庭的なわたしにとって家事は苦ではなかったし、ちょっとした話し相手としてもいい人だ。ただ、目の前に要求を抱えている人がいると、わたしはどうしてもそこに応えようとしてしまう。 ◆ わたしは人生ではじめて、親とも夫とも離れて1年以上を暮らしたのだった。途中、わたしの妹が加わっていた時期もあった。女性だけの生活というものをはじめて経験した。こういうものなのか、とわたしは思った。なんと譲り合いと思いやりに満ちていることだろう。5人を産み育てた実家の母の教育だけでなく、わたし自身が年の離れた妹のことも娘のことも、そのように育てたのだった。わたしが育った家では、誰かが立ち働いているときに進んで腰を浮かして手伝おうとしない人はほとんどいなかった。 束縛するというのではない。もちろん世間にはつれあいを束縛する男性もたくさんいるだろう。けれども、元夫はさほど強い束縛をしなかった。会食に出ていこうが、異性と二人で飲みに行こうが自由だったし、わたしもそれを当たり前のものと思っていた。わたしも相手の行動を束縛しようとは思っていなかった。ただ、そのかわりもっと大きな前提が彼の中にあったのだということには気づかなかった。 それをわたしは、わたしの人格に対する、あるいは判断力に寄せられた人間としての信頼そのものだと解釈していたのだが、それだけではなくて彼はわたしを自分の肌身の延長線上にあるものと思っていたのだろう。信頼という価値判断も介在はしていようが、単に自分の一部である、という。わたしの愚かしさは愛情ゆえでもある。事件とは直接関係なくとも、甘やかしたことが良くなかったのかもしれないとも思った。妻を自分のものであると思いすぎて、自分とは異なる人格をもつ人間として見られない人にしてしまったのではないか、と。 逆に、わたしは彼を自分の一部だと思っていたのか。そんなはずはなかった。むしろ男性というのはわたしにとって理解しがたい他者であり、何くれとなく満たしてあげる対象であった。自分の一部に尽くすことはしない。それこそが、別居して気づいたものの見方の違いであった。 女性だけの家庭になったとき、わたしは一つ一つ疑問に思っていたことに解が与えられた気がした。 昔は、日本における家制度の残滓(ざんし)や「嫁」という古い概念が影響を与えているのだと思っていた。実際、戦中世代の舅はそのような幻想を持っていたし、彼の人生の最後の頃にはわたしが忙しくなってその期待に沿えなかったため、価値観のずれが目立つことはあった。とはいえ、同世代の、18歳のときから同じ場所で同じ空気を吸っていた者同士の価値観がそこまでずれることは考えにくい。 アメリカ人の姑が急逝したとき、英語で書かれた手紙を遺品の中に見つけた。見つかった手箱からして、おそらく手紙を受け取った舅ではなく書いた本人が取っておくことにしたものだろう。それは若い頃の姑が結婚前に舅に宛てた手紙で、文化の違いがあるにせよ、愛情表現の不足はよくないということについて切々と諭すように書かれたものだった。舅は十分に妻を愛していたと思うが、戦中世代としてはおよそ口に出してI love youなどと言ったことがあるかどうかも疑わしい。月が綺麗ですね、が精いっぱいのところだろう。 母親というのは、自分のために何も望まない人だ。そういう誤解が神話のように存在していると思う。亡くなった舅は優しく、わたしがはっきりものを言えば飲み込んでくれる人だったが、だからといって彼の元々の世界観が揺らぐことはなかった。自分という存在が世界の中心である人だった。ふだん倹約家の姑が、老後に住みやすい家が欲しいと言い出したとき、誰も本気で受け取らないのを見て、義理の娘であったわたしは介入を申し出た。何も自分のために要求したことのない人がここまでいうというのは、これは本気にした方がいい、と。結果、彼女は眺めのいい家で幸せな老後の幾年かを過ごした。けれども、それがわたしの強引なプッシュによってはじめて実現したものであったことを折に触れて思い出すことがあった。 ◆ 母の無償の愛。その鋳型に母親自身も自らをはめ込み、自縄自縛になってゆく。人間の器しだいでは、その負荷は際限なく膨らんでいってしまう。 わたしもまたその鋳型に自らをはめ込む癖があったが、実際の「母」としての役割だけでなく、与えるという行為が広く周囲にまで拡大していってしまうことがある。それは時に害をなすこともあるかもしれない。女性だけの関係に自らを置いたことで、わたしは家族の中における父権的なものへの疑いを濃くするとともに、母的なるものが内包する問題についても考えることができた。 父権的なものが男女平等の時代に成り立たないことはいうまでもない。ましてや妻の方が社会的に先に立つような場合にはなおさらである。父的な関係性は家族を固く結びつけもしない。人の世話をあまり見ないからである。とはいっても、母的なる愛情にもどこか弊害がある。それが当たり前に強い結びつきであるだけに、相手を誤解させ、甘えさせ、色んな意味で影響を与えてしまう。踏み込みすぎない軽さであったり、同好の者同士のゆるい繋がりであったり、というバリエーションがそこにはない。だが、わたしは子育てでゆっくり考える暇もないときでさえ、自分が自立していることを疑ったことはなかった。子どもがある程度育った後には、自由を差し出しているつもりもなかった。 言葉にしてみると当たり前のことのようであるが、わたしは自分が元夫に十分に独立した人格であると見なされていないことに気づき、愕然としたのだった。それは、わたしが女性として抗ってきた因習に満ちた社会の眼差しからさほど距離のある態度ではないように思った。同時に、自分が与えてきた寛容さであるとか愛情というものが、必ずしもその人に良いものとは限らないということに遅まきながら気づくことになった。 そこで、考えた。夫婦とはいったい何のためにあったのだろうか。子どもへの愛情は明確な共通項であるとして、なぜ友人同士ではいけないのだろうか。ほんとうにわたしを妻とすることが相手にとってよいことなのだろうか。さらに、わたしはそもそも男性に何を求めているのだろう、と。