零戦が再び日本の空を舞う 試験飛行にかける実業家の思いとは
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零戦が再び日本の空を舞う ── 。旧日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)の試験飛行が27日、鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地で行われる予定だ。しかし、決して平坦ではなかったここまでの道のり。この零戦の主オーナーである石塚政秀氏に、試験飛行実現にまつわる思いを聞いた。
零戦を「戦争の象徴」から「物づくりの象徴」へ
零戦は、日中戦争から太平洋戦争にわたって旧日本海軍に使用された艦上戦闘機の略称。皇紀2600年にあたる1940年に採用されたことから、皇紀の末尾の数字をとって零戦と称されたという。当初は、世界の中でも最高水準の性能を誇った。 太平洋戦争末期、零戦は特攻機としても使われた歴史がある。試験飛行が行われるここ鹿屋の基地とその対岸の知覧飛行場からは特攻機が多数出撃した。石塚氏は「状況を打開するために特別攻撃をしたということについては大きな疑問があります。一方で、自らの命を祖国のために捧げて死んでいった若者たちが、現在の日本の平和と豊かな世界をどう感じるのか」という思いはあるという。 零戦を戦争の象徴と捉えるのは、それを都合よく思う人たちの思惑なのだと石塚氏は言う。「私は零戦を含めて大戦以前に日本人が作り上げたすべての文化と技術に対して、今一度多くの日本人と再検証出来ればと思っています」と話し、試験飛行の意義を強調した。
予期せぬ零戦との出会い、そして数々の試練
石塚氏はニュージーランド在住の実業家。1987年26歳でニュージーランドで起業し木材、住宅、車などの輸出入から不動産の開発などのビジネスに携わってきた。90年からは大戦中のミリタリージャケットを製作するなどのブランドをスタート。 こうした過程からアメリカ、イギリスの現役パイロットや大戦機のコレクター、大戦期のエースパイロットとの交流も生まれ、「零戦を日本に里帰りさせたい」と言う日本の博物館建設の人たちと関わることになった。飛行可能な零戦を見つけ、購入の手助けをしたものの、リーマンショックとともに彼は姿を消した。石塚氏が責任を取るかたちで零戦オーナーとなったという。 以来、零戦の日本への里帰りを目指して活動を開始したが、簡単にはいかなかった。ニュージーランドのクライストチャーチを襲った直下型地震に続き、2011年3月11日の東日本大震災も試練だった。その5月に映画の実写版撮影が決まっていたもののペンディングとなった。