西城秀樹さん63歳で逝去後も人気衰えず…少年時代、廊下に立たされた同級生に「一緒に職員室に謝りに行ってやるけぇ」
1969年生まれの記者は子どもの頃、西城秀樹さんの「激しい恋」の振り付けに目を奪われ、「傷だらけのローラ」「炎」の熱唱に魂をつかまれた。本名・木本龍雄。72年にデビューし、時代を一気に駆け抜けたスーパースター「秀樹」は、戦後10年を前にした55年4月13日、広島市に生まれた。 広島駅近くで育ち、同市東区の市立尾長小、市立二葉中へと進んだ。秀樹を「たっちん」と呼ぶ小、中の同級生小原潔さん(70)は「毎日どうやって友達を笑わせるか考えていた人気者」と話す。模型店のおっちゃんらの物まねはピカ一。笑い転げると何度もやってくれる。運動神経が抜群で、潔さんの妻和子さん(70)は小6の時、逆上がりを教わった。
中学時代は新しい洋楽が続々上陸し、共に音楽に没入した。「たっちんはロック、私はフォーク。学校の廊下で『今、何を練習しとるん?』と尋ね合った」と潔さん。中3の校内でのお別れ会は、後に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員となる数学教師・坪井直さん(2021年死去)が司会を務め、ドラム担当の秀樹がビートルズの「オー!ダーリン」を歌い始めると、生徒たちからどよめきが起きた。 潔さんは16歳の時以来、秀樹に会っていない。東京でデザイン会社を経営後に帰郷。60歳の時、母校近くで和子さんとお好み焼き店を開いた。秀樹が2度の脳梗塞で闘病していた頃と重なる。「元気になったら、ふらっと立ち寄ってくれるのでは」と願ったが、それはかなわなかった。
秀樹の少年時代を聞きに来たファンらに語る。「買い食いが先生にばれ、私が廊下で立たされた。たっちんはひとしきり笑って『一緒に職員室に謝りに行ってやるけぇ』と。芸能界で長く続けられたのも、そういう優しさがあったからでは」
2018年に63歳で逝ってからも秀樹の人気は衰えず、ファンに戻った〈ブーメラン組〉や新規も少なくない。30年以上支えたマネジャーでプロデューサーの片方秀幸さん(64)によると、ファンクラブ会員は死去前の2・5倍となる2500人に増加。昨秋始まった宝塚歌劇団月組トップスターのお披露目公演でも、見せ場の群舞に秀樹の「君よ抱かれて熱くなれ」が使われている。 「とにかく歌がうまかったと、失って初めて気づいた人も多い。洋楽のリズムに日本語を乗せるうまさは努力のたまもの」と片方さん。広島は秀樹の音楽性、メッセージ性を下支えしたようだ。