【私の視点】 「ブダペスト覚書」から学ぶべきことは
伊藤 芳明
新しい年が明け、1月20日には2期目のトランプ米政権がスタートする。もともとプーチン・ロシア大統領に親近感を持ち、対ウクライナ武器支援には消極的と言われるトランプ氏の再登場だけに、ゼレンスキー大統領は内心穏やかではないはずだ。 「紙一枚と署名だけで平和は実現しない。保証のない停戦では、プーチンが過去にやったように戦闘はいつでも再開できる」。そのトランプ氏と昨年12月8日にパリで会談した直後のゼレンスキー氏の発言である。彼は「紙一枚と署名だけ」に対する強烈な不信を表明したのだ。 不信の原点は30年前、1994年12月5日にある。この日、クリントン米大統領、メージャー英首相、エリツィン・ロシア大統領がハンガリーの首都ブダペストで旧ソ連圏に残された核兵器の処理に関する「ブダペスト覚書」に署名。対象となるウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの旧ソ連圏3カ国も調印し、フランスと中国も覚書を交わした。 1991年のソ連崩壊で、独立した3カ国に大量の核兵器が残された。特にNATO(北大西洋条約機構)に対峙(たいじ)する最前線、ウクライナには、旧ソ連の核の3分の1、約1000発の核弾頭が配備され、その平和裏の引き渡しは最大の課題だった。 覚書はウクライナが核兵器をすべて撤去し、NPT(核拡散防止条約)に加盟する、つまり「非核国」となるのと引き換えに、米英ロの3カ国がウクライナの安全を確約するものだった。具体的には、(1)ウクライナの独立、主権、国境線を尊重する、(2)ウクライナに対する威嚇や武力行使を控える、(3)ウクライナが侵略を受ければ、支援のため国連安保理に即時行動を求める──と記載され、クリントン氏は「安全を保障すると約束した」と明言している。 ところがプーチン大統領は覚書に反し2014年にウクライナ領のクリミア半島を一方的に併合、22年にはウクライナへの軍事侵攻に踏み切った。ロシア外務省報道官は「覚書は条約ではなく、国際法上の権利や義務を伴わない」と抗弁している。 確かに覚書には違反に対する罰則がなく、侵略された場合の軍事介入などの誓約も含まれていない。米英仏中などは有効な対抗策を講じることができず、プーチン氏に対する抑止は機能しなかった。 ウクライナの人々には、ブダペスト覚書で約束したはずなのに「裏切られた」との後悔が、鮮烈に残っている。だからこそゼレンスキー氏は、加盟国1カ国への攻撃を全体への攻撃とみなす集団的自衛権の行使が条約第5条に明記されたNATO加盟に固執しているのだ。 トランプ氏は、逆にウクライナのNATO加盟を先送りすることでプーチン氏を納得させ、欧州各国が監視軍を派遣して安全を保障することでゼレンスキー氏を納得させて停戦を実現。米国の関与をできる限り抑えて「停戦」という成果だけを自分の「手柄」にする一方で、領土問題などは今後の交渉に委ねる将来図を描いているのが見えてくる。 「紙一枚と署名」だけの約束には騙されないぞ―。ウクライナの人々の声が聞こえてくる。強引なトランプ流ディールにゼレンスキー氏がどこまで対抗できるか。戦場での攻防以上に熾烈(しれつ)な外交戦が始まろうとしている。
【Profile】
伊藤 芳明 ジャーナリスト。1950年東京生まれ。1974年、毎日新聞入社。カイロ、ジュネーブ、ワシントンの特派員、外信部長、編集局長、主筆などを務め2017年退社。2014年~17年、公益社団法人「日本記者クラブ」理事長。著書に「ボスニアで起きたこと」(岩波書店)「ONE TEAMの軌跡」(講談社)など。