「女はどうせ辞めるから」に抗った若手時代 SHOW-YA 寺田恵子(61)「チェッカーズは同期だったんだけど」
■売れずに悩む日々も衝撃の指摘「24歳?まだ赤ちゃんだよ」 ── そういった悩みを抱えつつ活動されていたのですね。演奏技術には定評がありますが、どのようにして身につけましたか? 寺田さん:デビューした当時は、週5~6日はスタジオにこもって朝から晩までバンドで練習していました。最初は寮生活をしていたのですが、ドラムの角田は朝起きるとドラムのスティックを持って練習部屋に行って練習。そこからスタジオに行って、帰ってきてからもまた夜も練習するほど“練習の鬼”だったんですよ。
── まるでアスリートですね! 寺田さん:デビュー曲はCMのタイアップだったし、必死で練習しましたね。当時はレコードだったので、CMタイアップは表面のポップな楽曲だったけど、裏面は自分たちの好きなヘヴィメタル(笑)。音楽的に葛藤があったんじゃないかと指摘されることもありますが、自分の中では両方を持っているバンドだと思っています。ちゃんと“やりたい音楽”の主張はしていました。 ── 寺田さんのなかでは、自分がやりたい活動もできていたと。
寺田さん:当時は「ハードロックは男の音楽」っていう認識で、「SHOW-YAは歌謡曲に魂を売った」とか「女にハードロックができるわけがない」って言われていました。それが悔しくて…。そういうことを言う相手にはいつか必ず勝ってやる。そんな強い思いをもっていましたね。 ── それでも、デビュー後しばらくはやりたい音楽が認められなくて苦労されたのですね。 寺田さん:デビューしたらすぐ売れるだろうと考えていたので、ヒット曲が何年も出なかったのはつらかったです。“もしかしてビジュアルがよくなかったのかも”と、髪型を変えたり、いろいろ試行錯誤しました。でも、これだというものが見つからなくて。
自分たちの方向性がわからなくなっていた24歳の頃に、アメリカでレコーディングする機会があったんです。海外のスタッフに「髪型を変えたり、有名な人に歌詞を書いてもらっても売れない。どうすればいいんだろう」って話したら、「君はまだ24歳だろ。アメリカで30歳のミュージシャンはまだ赤ちゃんだよ」って言われて。「30歳になるまでにいろんな経験をして、30歳で歌ったものが初めて歌として表現できる。まだあと6年もあるじゃないか」と励まされたんです。そこから精神的にふっきれました。自分たちに与えられた仕事一つひとつに真正面からぶつかって、そこから得るものは何だろうって考え始めるようになりました。