最愛夫を看取った3日後に映画撮影、吉永小百合の知られざる「台本のない夫婦の物語」の真実
始まった“台本のない夫婦の物語”
結婚当時、吉永は雑誌インタビューで両親について問われ、こう語っている。 《二十五、六になるまで自分の意思を持たなかったし……。結局、自分の意思で、もっと人間ぽく生きたいとか、そういうことを思うようになって》 岡田さんと出会った吉永は“両親の人形”から“意思を持った人間”へと変わったという。ここから、“台本のない夫婦の物語”が始まった。 ある芸能プロ幹部は、当時の吉永について述懐する。 「1年間は仕事を休み、その間に料理や裁縫の教室に通って、さまざまな家事を学んだようです。岡田さんに“愛妻弁当”を持たせていたなんて話も耳にしました。女優に復帰されてからも、家庭をおざなりにしないよう、仕事の量については、かなり相談されていましたね。自分の時間とご主人との時間を一番に考えていらしたのでしょう」
過酷な仕事を課されていた吉永に、岡田さんはこう言葉をかけたと過去の雑誌インタビュー記事で明かしている。 《女優であるより、まず、僕の妻であってほしい。仕事は、家庭のことがきちんとできる程度のものがいいのでは》 吉永を少しでも休ませたい。そんな思いがあったという。吉永は、夫の思いに応じるように、変わっていった。
吉永の母親が書いた“恨み節”
その後も夫婦で仲よくラグビー観戦をする姿が目撃されるなど、ふたりは真っ白だったページに、共に物語を描いていった。しかし、それはふたりだけのもの。こんな様子を、吉永の知人が話す。 「テレビでは岡田さんのことを“主人”と呼びますが、私たちの前では“うちの岡田”って言うんです。ご主人のことをノロケることは、まったくない。ただ、ふたりのときは“太郎さん”なんでしょうけれど」 外では常に“吉永小百合”を演じていた彼女が「太郎さん」と呼ぶそのときだけ、愛する夫の伴侶である“岡田小百合”になっていた。幸せな夫婦生活を送る一方で、“吉永家”との確執は消えないままだった。 「吉永さんの母親が1976年に書籍を出版するのですが、その中に《私は今までに、本当に一人だけ殺したいと“殺意”を持ったことがある。その対象は岡田太郎という男で、私の次女の結婚相手である》と記されていたのです。吉永さんは、関係修復を図ろうとしていたようですが、この本の出版を機に再び疎遠になってしまうのです」(前出・芸能ライター、以下同)