京極夏彦さん最新作「病葉草紙」 奇妙きてれつな“虫”に着目…さらに広がる京極ワールド
作家の京極夏彦さんが最新作「病葉(わくらば)草紙」を出した。妖怪(お化け)を主題にした作品を発表し続ける中、今回着目したのは「虫」。しかも九州国立博物館(福岡県太宰府市)が所蔵する戦国時代の医学書「針聞書(はりききがき)」に出てくる想像上の奇妙きてれつな虫たちだ。「オリジナリティーのある面白い存在」と語る虫の登場で広大無辺な京極ワールドが、さらに広がった。 【写真】京極夏彦さん最新作「病葉(わくらば)草紙」の表紙 毛のないネズミが酔って踊っているような「脾臓虫(ひぞうのむし)」、軸のないシイタケみたいなものからミミズみたいなものが生えている「脹満(ちょうまん)」。本書の章題となり、主役を張るのは「針聞書」でビジュアル化された“病気の元凶”たちである。 「妖怪の成り立ちを考えた時、複製って重要な鍵になるんですよ。何代にもわたってコピーされ、洗練され、変化し民意を得てキャラクターになる」と京極さんは言う。一方「『針聞書』の虫たちは筆写されなかった。元の形がそのまま残った『お化けの素』です」と、その違いを語る。 「病気を加持祈祷(きとう)で治癒しようとしていた時代、病気の原因は悪さする虫で、薬や針で治せるという科学的見地から書かれたのが『針聞書』です。それが科学的な発想とは対極のお化けの素となる反転具合が面白いじゃないですか」 時代は江戸の中頃。貧乏長屋の大家の藤介(とうすけ)と店子(たなこ)の本草学者、久瀬棠庵(くぜとうあん)を軸に物語が進む。妻と接触を避け痩せ衰える職人、酒宴後に死んだ4人組、何も食べないのに太ってゆく住人。長屋内外の騒動を藤介が棠庵に伝えると、決まって「針聞書」をひもとき「虫のせいだ」と答える。でも、本当は棠庵は虫の存在を信じていない。真相は一体どこに-。 ともに20代と若い藤介と棠庵の軽妙なやりとりが物語をテンポよく進めてゆく。「サゲ(落ち)のある落語に近いですね。謎解きの要素はあるんですが、途中の掛け合いの方が本書の本質だと考えます」。今年完結した「巷説百物語」シリーズのように、謎と仕掛けを幾重にも巡らせた濃厚なミステリーではない。本書はシンプルなプロットゆえに、テーマや問いが明確に浮かび上がってくる。 例えば棠庵が繰り返す「人の心なんて解(わか)らない」というせりふ。森羅万象に通じた棠庵が抱える最大の疑問は、他者とのコミュニケーションに悩む現代人をも照射する。 「今、見ているものを簡単に真実と受け入れていいのか?」という問い掛けもそう。過去に「お化けは嘘だけど居る」(「後巷説百物語」)と書いた著者らしい疑義だ。本書でも虫を「信じる人」と「信じない人」の間に置き、読者に考える場と時間を与えた。デビュー以降、一貫して投げかける問いに思える。 棠庵はすでに「前巷説百物語」に「五十絡みの小男」として登場し、「人の心は量れません」「ここ(心)の話は苦手です」と吐露している。「人の心が分からず困る棠庵と、世話焼きだけど実はコミュニケーションができていない藤介を組み合わせれば、お互いの傷や欠けているものが見えるんじゃないかと考えました。病を描いた『針聞書』には合っているかなと」 □ □ 「嗤う伊右衛門」の脇役だった又市が「巷説百物語」シリーズで主役を務める。「後巷説百物語」の矢作剣之進は「書楼弔堂」シリーズにも顔を出す。本書では棠庵が活躍する。これまで書いた登場人物を細かにフォローする姿勢は、全登場人物に“結末”をつけ、ジグソーパズルの膨大なピースを収まる所に収めた滝沢馬琴「南総里見八犬伝」を思い起こさせる。 「僕の小説のルーツは江戸の小説です。『八犬伝』は一つの完成した小説の形だと思います。執筆に28年かけて伏線を回収した馬琴の仕事には憧れます」 その強い思いは小説作法と結び合う。「不思議なことに合理的解決をつけるのがミステリーの基本形でしょう。だけど僕の場合、合理不合理関係なく、虚構であってもなくても構造体としてきれいな小説を書きたいと思っているのです」 なぜ「病葉」がタイトルとなったのか? 最終章で胸を打つ理由が準備されるなど、本書は「きれいな構造体」の小説だ。だけど取り上げなかった「針聞書」の虫は55匹残っている。すべてが登場すればより堅固で美しい「構造体」が生まれる、と考えるのは欲張りすぎだろうか。 (塩田芳久)