天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」
ただお一言、深いため息を…
明治天皇やその妻・昭憲皇太后に仕えた女官として、山川(旧姓:久世)三千子という人物が知られています。 【写真】天皇家に仕えた「女官」、そのきらびやかな姿 彼女は1909(明治42)年に宮中に出仕し、1914年に退官するまでの足掛け6年間、天皇家の「内側」の奥深くをつぶさに目撃しました。 彼女の当時の経験は、『女官』として1960年に実業之日本社から公刊され、世間に衝撃を与えたとされます(現在は『女官 明治宮中出仕の記』として読めます)。 現在、皇室は後継ぎの問題などによって、大きな岐路に立たされているとでも言えそうな状況ですが、同書を読んでいると、天皇家に生きる人たちの姿が、教科書で学んだものよりもいっそうニュアンスに富んだイメージとともに浮かび上がってきて、「皇室」や「天皇」について考えるために多くのヒントを得ることができそうです。 たとえば、伊藤博文が1909年10月、中国の北部・ハルビンで暗殺された際の明治天皇の反応は、少し意外なものがあります。 〈この陛下を、お驚かせした事件は、伊藤公がハルピン駅頭で撃たれたとの突然の情操でございました。さすがのお上(編集部注:明治天皇のこと)も、 「ううん、伊藤が殺されたか」 とただお一言、深いため息をおつきになりました〉 この反応はある程度、想像のつくものかもしれません。しかし、興味深いのはこの直後の記述です。 〈そして数日後のお食事中、 「日本につれてこられてから、ただ一人爺や爺やと伊藤ばかりをたよりにしていた朝鮮の坊ちゃんは、さぞ心細いだろう。可哀想にね、いわば人質だから、この間東宮さん(大正天皇)が来た時、これから仲よくして可愛がってあげなさいと、言っておいたけれど」 とおいたわりのお言葉をおもらしになりました〉
「朝鮮の坊ちゃん」とは誰か?
ここで言う「朝鮮の坊ちゃん」とは、「大韓帝国最後の皇太子」として知られる、李垠(り・ぎん/イ・ウン)のことであると見られます。 大韓帝国皇帝・高宗の息子として生まれた李垠は、幼少期に伊藤博文の舵取りによって日本を訪れ、そのまま学習院や陸軍士官学校で学びました。日本にとって、大韓帝国に対する「人質」的な立場だったのではないかと考えられています。 1910年の日韓併合を経て、日本の「準皇族」となり、やがて皇族の梨本宮方子と結婚。帝国陸軍では、中将まで務めました。 戦後は、韓国において「対日協力者」として帰国を拒否されたかと思えば、朴正煕政権下では李王家の末裔として厚遇され……と、評価が揺れ動きました。混乱する20世紀の東アジアにおいて数奇な人生を歩んだ人物として知られます。 明治天皇にとって李垠は、いわば「自国が支配している植民地の王族」と言えるわけです。しかし、上記の明治天皇のセリフからは、李垠を見る際のより複雑な含みが伝わってきます。そこからは、明治天皇が置かれた一筋縄ではいかない立場も垣間見えるようです。 ちなみに、明治天皇の頼みをきちんと聞いていたのか、皇太子時代の大正天皇はその後、李垠ととても仲よくなったことが知られています。 また、放送大学教授で日本政治思想史が専門の原武史さんによる「知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記」という記事によれば、同書には、天皇家の「闇」をあぶり出した側面もあるとも言えるそうで、興味の尽きない書物と言えます。
学術文庫&選書メチエ編集部