鎌倉殿・源頼家は、なぜ悲劇的な最期を迎えねばならなかったのか?
■ 病は回復するが… 年長者から注意されるのならまだしも、自分と同じような年齢の者にあれこれ言われたことに、頼家は腹を立てたのでしょうか(側近の中野が、泰時の言を幾分過剰に、頼家に伝達した可能性もあります)。リーダーたる者は、良い情報だけではなく、自分にとって悪い情報や諫言さえ、集めなければいけないとされます。また、意見がいいやすい、諫言しやすい環境はリーダーが率先して作っていかねばなりません。 東芝元会長の土光敏夫氏は、石川島重工(現IHI)の社長として会社再建にあたった時、暇を見つけては、工場を歩き回ったといわれます。そして、社員に声をかけ、話を聞いたのです。社内から積極的に意見提出させて、良いと思ったことは、すぐに実行に移したというのです(佐藤悌二郎『部下のやる気に火をつける! リーダーの心得ハンドブック』(PHP研究所、2008年)。 『吾妻鏡』の記述を、あえて真正面から受け止めるならば、頼家は、まだ若いということもあったでしょうし、幾分、我儘な気質もあったのでしょう、諫言を素直に受け入れる度量がありませんでした。政子から佞臣と批判された側近を未だ重用していることも、諫言を聞いていない証拠と言えるかもしれません。 頼家は「古今に並びなき、武芸の腕前の持ち主だとは、隠れもない評判」と『愚管抄』(鎌倉時代初期の僧侶・慈円の史論書)にあるように、軍事組織の長としての才はあったと思われます。しかし、御家人の愛妾の強奪や、蹴鞠没頭などにより、信望は低下していたのです。 源頼朝の死後は、有力御家人同士の権力闘争が激化しますが、頼家にも近い梶原景時が、最初に追い落とされ、討死します(梶原景時の変=1200年1月)。続いて、北条時政と比企能員との対立が先鋭化。頼家は、比企氏の娘を妻妾(若狭局)にし、子の一幡をもうけていましたから、比企氏寄りでした。 建仁3年(1203)8月、頼家は病により危篤状態となりますが、その隙を突いて、北条氏は、頼家の弟・千幡(源実朝。母は北条政子)の将軍擁立を図るのです。そして、頼家の外戚・比企一族までも一気に滅ぼしてしまいます(比企能員の変=1203年9月2日)。 翼をもがれた形になった頼家。病は回復しますが、その権力基盤は既に根底から崩れており、北条氏により、鎌倉殿の地位を追われ、伊豆国の修善寺に追放されます(9月29日)。翌年、元久元年(1204)7月18日、頼家は、北条氏の手の者により、修善寺で暗殺されました。 頼家側近の中野能成は、裏で北条氏に通じていたのではとの見解もありますが、それが本当だとすると、頼家は側近にまで裏切られたということになります。哀れというほかありません。比企氏が将軍外戚になったということが、頼家の悲劇の遠因と言えるでしょう。比企氏が将軍外戚として権力を握ることを北条氏が警戒したのです。
濱田 浩一郎