【山手線「駅名」ストーリー】池袋(JY13): ホテルメトロポリタンのあたりは農業用水の水源「丸池」だった
西口にあった大きな池
池袋は、「池」と「袋」すなわち袋状の窪地を表す文字で構成される。「池」は溜池や池尻、「袋」は沼袋、袋田など水がたまりやすい低湿地帯の地名として使われることが多く、実際にこの文字が入るエリアは過去に何度も水害に見舞われている。 だが、池袋駅は低地どころか高台に位置している。文化・文政期(1804~1830)に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』も、「池袋村は地高くして」と、高い場所にあると記している。標高は32.34メートル。旅行・鉄道関連の著作が多い内田宗治は、峠の頂点のような場所に立つ駅だという(『地形を感じる!駅名の秘密』)。 つまり池袋は水害多発地帯ではない。では、なぜ水と窪地に関係しているのか。それにはふたつの説がある。 (1)「池袋村の東北の方にのみ水田あり。その辺窪地にして地形袋の如くなれば村名起こりしならん」『新編武蔵風土記稿』 (2)「当村を池袋と名づけしは往古おびただしき池ありしによるなり」『遊歴雑記』(文化年間の見聞記) (1)は少し東北の方に水田などを持つ「地形袋の如」き窪地があり、それに関連して池袋と呼ばれるようになったとの説だ。ただし、地名研究家の谷川彰英は、窪地は池袋駅より東武東上線・北池袋駅、および埼京線・板橋駅に近く、現在の上池袋3~4丁目から池袋本町3丁目の付近にあったという。確かに現在は暗渠となっているが、かつては谷端川が流れており、水に関係があった。おそらく湿地帯だったのだろう。 (2)の「往古おびただしき池」は、池袋西口にあった大きな池を指す。池は「丸池」(または沼池)と呼ばれていた。『遊歴雑記』は続けて、「中古より段々埋まりしが、なお三百余坪もあらんや。西の果ては池袋と雑司が谷の村境いにありて、常に湧き出ん」 西口に300坪余(約990平方メートル)の丸池があり、水がこんこんと湧き出ていて、ここを水源に雑司が谷方面に川が流れていたというのである。この川が、現在暗渠化されている弦巻川だ。 さらに『遊歴雑記』は、この川の水を農業用水として使う権利を持っていたのは雑司が谷村の村民たちであり、池袋村ではなかったと記す。地名の語源となっていながら、池袋村の村民はまったく関わりがなかったというのだ。理由は簡単で、池袋村は高台にあったため、丸池から水が流れてこなかったからである。 いずれにせよ、(1)は「窪地」という地形、(2)は「池」に由来を求めている。どちらが正しいかは不明だが、池袋のある東京都豊島区は(2)の説をとっている。 なお、池袋の地名は戦国時代の16世紀半ばに、すでにあった。関東を支配していた後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』に、当時の後北条配下だった太田康資(おおた・やすすけ)が池袋を知行地としていたとある。 江戸時代に入ると幕府領となり、『記録御用所本』(旗本に伝来する文書を幕府が編纂した書物)によると、1625(寛永2)年以降は幕府が指名した複数の旗本が共同で管理したという。こうした統治形式は江戸の周辺地域の特徴だった(『駅名で読む江戸・東京』大石学)。 この旗本たちによって順調に米の生産が伸び、天保年間(1831~1845)には江戸初期の4倍、石高約600石となっていた。池袋が発展する土壌は、江戸時代から培われていたといえよう。