野木亜紀子が『海に眠るダイヤモンド』に懸けた思い 「面白いと思うドラマを作り続ける」
みんな忘れてしまうかもしれないけれど、綿々と続く「時間」を書きたかった
――清水尋也さんは野木さんのイチオシだったと新井プロデューサーからお聞きしました。台本を書きながらそのイメージが膨らんだのですか? 野木:今回は、まず主演は神木くんということだったので、過去パートはパブリックイメージ通りの鉄平を想定して、それに対する賢将の役は軽めにしたいなと。キャスティングも、神木くんとは全く違うタイプの男性がいいなと。それこそ外国の方が見ても、パッと見分けがつくぐらいに。というのも、私自身が海外ドラマで顔を見分けるのが苦手で。そう考えたとき、今の若い世代の方って結構みんな優しそうなビジュアルが似ているというか。その点、清水くんって神木くんと系統が全然違うじゃないですか。それに彼は、見かけるたびに血まみれになったり生きづらさを抱えていたり、陰な役に一生懸命取り組んでいる印象があって。若いのに偉いなと思いながらも、もっと違う、明るい感じの役も見てみたいと思ったんですよね。ちなみに第4話で、賢将が百合子にネックレスを返すシーン。賢将が百合子の涙を隠す場面がありましたが、あれは塚原さんの演出です。私としては、あんなに人が多いところでやるとは思ってなかったので、「おお、そう来たか!」と映像を観て思いました。塚原さんは「端島は常に人がいる」っていうことを意識しているんだなあと。 ――第6話で賢将が百合子にプロポーズしたシーンは大好評でした。 野木:プロポーズのセリフは、現代的になりすぎないようにというのが難しいところでした。時代に対してあまりにも進歩的なことを言ってしまうと、それはそれで違ってきてしまうと思ったので。 ――なるほど。賢将のセリフも百合子の状況を配慮しつつ頼もしく、現代女性たちにも刺さるものがありました。 野木:でも、当時のことをあれこれ調べると、案外今と変わらないんですよね。カタカナ言葉というか、英語もバンバン使っていたり。時代を感じるために1950年代の雑誌を片っ端から手に入れて目を通したんです。あと当時の端島の組合誌への寄稿とか。そうしたら、女性たちが「この封建主義的な構造がよろしくない!」とか「我々女性から意識改革をしていかなくちゃならない!」みたいな。今と変わらないことでみんな悩んでいたり怒ったりしていて。 ――70年も経っているのに!? 野木:はい。1950年代の日本映画も改めていろいろ見直したんですが、家出をした若い妻が旦那を指して「あの人は、私を馬鹿にしてるんだわ!」ってやっているんですよ。もうね「何も変わってないじゃん!」って。それを男性の脚本家と男性の監督で作ったりしているから、また興味深かったですね。 ――戦後間もないタイミングで、そんな作品が作られていたなんて。 野木:その時代、わりと多いんですよ。小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督の女性映画とか。余談ですが、雑誌を見ていて驚かされたのが、石原慎太郎さんが新進気鋭の作家という立場で登場されていて、岡本太郎さんたち先輩に「そういう女性の見方はどうかと思うなあ、前時代的ですよ!」みたいに切り込んでいて。 ――あの石原慎太郎さんにも、そんな若いときが! 野木:そう! 私たちの印象に残っている都知事時代以降の石原さんって、「この時代にそれはどうなんだ?」と指摘される側だったじゃないですか。だから「えー!」ってなっちゃいましたよね。私たちにもそういう日が来るんでしょうね。 ――本当にこのドラマを観ていてしみじみ思ったんですよ。今、目の前にいる年配の方々も若いころがあって。ちゃんと時間が続いているんだなと。 野木:いづみさんも朝子だったし、鹿乃子や和馬だって無垢な赤ちゃんのころがあった。おじいちゃんおばあちゃんにも青春時代があったっていうのは、当たり前のことなんだけど、実感しにくいところですよね。 ――はい。なので、このドラマでしか体感できないタイムスリップがあったなと。 野木:それはきっと過去パートだけでは表現できなかったことなんですよね。現代パートまで描くことで、そこの重みというか、長さというか。二つの時代を描くことで、そういう時間の流れを見せられたことは、よかったなと思います。