エントランスの前に女性用トイレは“鉄則” 70年代・東京の「大人の社交場」を作った伝説的存在・岡田大貳
ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。 この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。
10月10日(木)の放送では、バブル期前夜からこれまでに伝説のクラブ「キャステル」のほか、数々のレストランやディスコをプロデュースしてきた伝説的存在・岡田大貳が出演。岡田は、1946年生まれ。上智大学を卒業後、フランスのパリへ行き、レストランやエンターテインメントビジネスの運営・経営、全般を実践的に学ぶ。73年に帰国すると六本木の会員制ディスコ「Castel Tokyo」で支配人を務めた後、さらに六本木のディスコ「The Bee」を手掛ける。そして81年、南青山にデートで使える中華料理店「ダイニズテーブル」を開業。また1986年、原宿の神宮前に日本のクラブ文化の先駆けとなる、「club D」をオープンさせた。
■“かき氷漬けのシャンペン”を持って走り回った「下積み時代」
大学を卒業後、なぜ会社員にならずに、パリへ渡ったのか。 岡田:端からサラリーマンになるつもりはなかったので、どこか海外に行きたいということを考えてました。私の6つ上の兄がニューヨークに行きました。私はフランス語を勉強していたので、すぐパリへ行くことに決めました。当時、私の父が赤坂のナイトクラブ「ミカド」のショーのプロデューサーをしていて、パリの「リド」とか、「ムーラン・ルージュ」とかのショーを買っていた。(父の)そういう縁があって、「とりあえずはリドへ訪ねてごらん」という親父の進言があってリドに行きました。 フランス・リドへ渡り、人の紹介もあって、岡田はウェイターとしての道を歩き始めるが……。 岡田:(最初は仕事が全然)できなかったです。フランス語で、バンバンバンバン言われるわけでしょ。フランス語、勉強していたつもりだったけど、全然現実的には役に立たないので。苦労しました。あとね、やっぱり、力仕事が大きい。とにかく苦労しました。出るものは、ほとんどシャンペン。だいたいシャンペンっていうのは当時は1本が2人前。2人で1本、4人だと2本。金属のバケツにフランスでは、かき氷をだーっとしり詰めて、シャンペンをそこへ入れて、運ぶ。それをひどい時は、2つ4本持って走りまくる。一番遠いところの席に行くとか、もう地獄ですね。もたもたしてると怒られるし……。ひどい苦労しましたね。