世間は実体以上に過剰反応する 経済学者の大富豪 D・リカード(上)
アダム・スミスとともに、英国の古典派経済学者としてもっとも影響を与えたデヴィッド・リカード。経済学者なら、その知識を生かして巨万の富を築くことはわけもないだろう、と思われがちですが、そのような人はそう多くはありません。しかし、それをうまくやってのけたのが、リカードでした。投資家としてのリカード、その経済学の理論と知識をどう生かしていったのか、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかない?
経済学者で金もうけに成功した例は少ない。かつてノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートンやマイロン・ショールズ博士らの運営する投資ファンド「LTCM」が破綻して世間を驚がくさせたのは記憶に新しい。LTCMの例にみられるように「経済=金もうけ」は理屈通りにはいかないからだ。 生きた経済の典型である株式や商品市場で成功した経済学者の双璧はD・リカードとジョン・メイナード・ケインズだろう。商傑ユダヤ商人の血を引くリカードの富は現在の価値に直すと100億円を超す巨額にのぼった。慶應義塾の塾長を務めた経済学の泰斗、小泉信三博士がリカードの遺産を計算して22億円と弾いたが、それは60年も前のことだから今なら100億円を下るまい。
14歳にしてロンドン・シティの株式取引所に出入り
D.リカードのルーツをたどるとイタリアの商人に行き着く。世界経済の中心がオランダに移ると、アムステルダムに移住し、財を成した。オランダが占めていた経済上の覇権が英国に奪われると、リカード一家もロンドンに渡る。 D・リカードが生まれるのは日本の明和期(1764-1772)に当たり、大阪商人が実力を蓄えるとともに堂島のコメ相場も盛り上がりをみせていた時代である。 D・リカードが初めてロンドンでシティの株式取引所に出入りするようになるのは14歳のとき。株式取引所の仲買人だった父親の走り使いで取引所周辺を飛び回っているうちしだいに才覚を発揮する。父の七光もあって取引所で地歩を固めていったD・リカードだったが、結婚を巡って父と対立、わずか800ポンドの金を持って父と決別する。シティで金融ブローカーとなったリカードの相場のやり方について友人が日記に書いている。 「彼は市場の変化に際して、異なった証券の相対価格間に起こりうるべき、どんな偶発的な差額でも、これを関知することが異常に速やかであり、この好機を自ら利用して、一つの証券を売り、他の証券を買うとか、あるいはその反対のことをすることによって、1日に200ポンドまたは300ポンドももうけた」