「曙がキックボクシングのジムに通ってる」何気ない雑談が、テレビ史を塗り替える事件「曙太郎vs.ボブ・サップ」を生んだ
師匠のようにはなれない
それは『日刊スポーツ』の記者との他愛もない雑談からだったという。 「谷川さん、知ってる? 曙って最近、キックボクシングのジムに通ってるんだって」 「曙?」 「大相撲の曙親方だよ。引退したばかりなのに、レイ・セフォーやマーク・ハントと一緒に、パンチやキックの練習をして汗を流しているんだって。同じサモア系つながりで」 そのときは「ああいう巨体だとダイエットも大変そうですね」と聞き流したが、自宅に帰る頃には「待てよ」と思い直した。 「曙、いいじゃん」 記者との何気ない雑談から、格闘技史のみならず、テレビ史まで塗り替える事件が起きようとは、谷川貞治はもちろん、情報を洩らした記者自身も思いもしなかっただろう。 曙太郎、第64代横綱。アメリカ・ハワイ州オアフ島ワイマナロ生まれ、旧名・チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン。少年時代から長身をいかし、バスケットボールに夢中になる。大学中退後、同じハワイ出身の元高見山の東関親方にスカウトされ角界入り。1988年春場所に初土俵。90年秋場所で新入幕。同期の若貴兄弟と切磋琢磨しながら、出世街道を突き進み、92年夏場所で初優勝。同じハワイ出身の小錦以来となる、2人目の外国出身大関に昇進をはたす。 93年初場所後に外国出身力士として初の横綱に昇進。遅れて大関、横綱に昇進したライバル、貴乃花、若乃花との名勝負は数知れず、正真正銘、平成の角界の牽引役となる。2001年初場所後に現役引退。生涯戦績654勝232敗181休(78場所)。優勝11回。 そんな大横綱の曙を、大晦日のK-1のリングに上げてしまおうというのだから、タイソン以上に難しそうな話ではある。 しかし、谷川が曙の身辺を探ってみると、この時期、曙は困難な状況に置かれていたことがわかった。要諦は次の3点である。 (1)師匠である東関親方(元高見山)と、まったくうまくいっていなかったこと (2)ハワイの食料や雑貨を売る店舗を赤坂にオープンさせたが、経営は赤字続きだったこと (3)年寄株を取得し、日本相撲協会の職員として「興行本部長」のポストを与えられていたが、チケット販売に苦労していたこと これらに加えて、ハワイ出身の先輩力士である小錦に「お前には絶対に相撲協会の体質は合わない。俺みたいにタレントになれ」と再三誘いをかけられていたこともわかった。 師匠の高見山のように日本に帰化し日本名を名乗ってはいたが、同じように振る舞えないことは、曙自身も理解していたに違いない。「渡辺大五郎」を名乗り、引退後も日本のCMに出演した高見山は、政財界のパーティや会合に嫌な顔一つせず顔を出し、大勢の後援者を得て、日本人以上に日本人になろうとした奇特な存在である。 師匠のようになれないのは、身に染みてわかっていたが、それでも、何とか角界に溶け込もうとしていた。横綱として幾多の記録を打ち立てた彼の次なる目標は「外国出身親方初の理事長」、それまでは何があっても、角界に留まろうと耐えていた。しかし、2003年のこの時期、曙の繊細な神経は限界を迎えようとしていた。師匠に相談しても「お前が甘い」と言われるだけで、何の解決にもならなかった。これらのことを、谷川貞治は周囲への聞き込みで知った。 彼を取り巻く状況が悪ければ悪いほど、追い風が吹いていることにほかならない。携帯電話の番号も入手した。それでも「もしもし、谷川です。K-1に出てもらえませんか」と言ったところで成就するとも思えなかった。「じゃあ、会いに行くか」と思った矢先、例の記者が「今は東京にいないよ」と言う。 「どうして?」 「だって、もう少しで九州場所が始まるから」 要領を得ない様子の谷川に、記者は呆れた様子でこう説明した。 「谷川さん、何も知らないんだなあ。地方場所って、始まる2週間くらい前から、職員や力士はその土地に陣を構えるもんなの。特に曙は興行部長だから、今は連日連夜、博多の街でチケットを売り歩いてるはずだよ」 それを聞いて、谷川は膝を打った。地方にいるなら邪魔が入らない分、好都合なのだ。 「今すぐ、博多に飛ぼう」 続きは<「親方、ボブ・サップと戦って欲しいんです」大晦日K-1参戦を持ちかけられた曙。その意外な反応>で公開中。
細田 昌志(総合作家)