村上春樹『風の歌を聴け』が表現する日本的感性 「他人とは分かり合えない」から始まる人間関係
藤井:ちなみにそれでいくと、僕が村上春樹に出会うまでの17、8年間生きてきたなかのいろんな絶望のなかの一つに、もちろん、ポストモダン的絶望もあります(苦笑)。冷笑することによる、ある種の不誠実さが、心底嫌いだった。 川端:分かります。ポストモダン的な冷笑主義者の「笑い」って、噓なんですよね。その、社会や世界を突き放したようなぬるい笑いは、お前の本当の感情じゃないだろうって思うから、すごく嫌いなんです。ところが春樹は冷笑の「笑」の方を描かないから、なんというか、同じシニシズムでも清潔で誠実な感じがするわけです。
藤井:一番重要なのは、誠実、真摯であること。それが村上春樹の小説なんですよ。 川端:村上春樹はもちろん典型的な現代小説を書いているわけですけど、ある意味で日本の古典的な倫理を背負ってもいるのかもな、と思った箇所もあります。例えば第三十八節の最後に「あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている」とあって、これはポストモダン的に読むこともできるんでしょうけど……。
藤井:日本の『方丈記』のような……。 川端:そうそう、鴨長明とかの、無常観に根ざした倫理が浮かび上がっているような気がするんです。シニシズムは「犬儒主義」とも訳すじゃないですか。もともと「シニック」の語源はギリシア語で「犬」を意味する言葉で、犬みたいに自然に身を任せて生きる主義をシニシズムと言ったようです。村上春樹はそれに近い意味で、日本的なシニシズムの現代的な顕れを描いている感じがします。 藤井:「風の歌」の「風」っていうのは、『方丈記』の「ゆく河の流れ」なんでしょうね。
川端:このタイトル、僕はめちゃくちゃ良いと思うんですよ。「風の歌を聴け」って、一般的な村上春樹のイメージには反する解釈だと思いますが、よくよく考えるとすごく日本的な感性でしょ。 浜崎:ホントそうですね。その「日本的感性」っていうのは、今回、僕も読み返していて改めて感じました。その意味じゃ、ものすごく伝統的な日本文学だなぁと(笑)。もちろん、書き方はアメリカナイズされているし、オシャレで現代的なんですけどね。