村上春樹『風の歌を聴け』が表現する日本的感性 「他人とは分かり合えない」から始まる人間関係
浜崎:そうか、僕がちゃんと「敗北」してなかっただけなのかもしれない(笑)。 柴山:主人公の「僕」は昔の彼女が自殺してしまって、もう人と深く関わるのが嫌なんでしょうね。 藤井:でも、これは『ノルウェイの森』の話になってしまいますが、ものすごい助けようとしてるじゃないですか、自殺してしまう「直子」のことだって。指が4つしかない女の子のことも、できるだけ誠実に助けようとして、一晩抱っこして寝るんですよね。自分の体に女の子の鼻がくっついているのを感じながら。
だから現代っていうのは、ここからしかもう始まらないと思うんですよ。こんな絶望的な状況からしか。 藤井:でもそれは、絶望的状況なんだけど、この村上春樹の『風の歌を聴け』は、絶望はしてない。人と人が分かり合うこともできないし、人が人を本当に助けることなんてこともできない。だけど、例えばジェイズ・バーで、おいしくビールを飲む、あるいはパスタを湯がく。たかだかパスタだけど、美味しく作る。なんかそこにね、ミクロな日常のなかに真実がある。
その真実を誠実に一つずつ拾い集めて生きていくところからしか出発できないし、その真実がどれだけ小さなものであってもその真実は真実であって、そんな真実があるにもかかわらず絶望している暇なんてないはずなんだ、っていうことを僕は村上春樹に教えてもらったんです。そこから出発して今の僕があるんだと思うんです。 ■「相対主義」とは違う「無常」 川端:今の柴山さんと藤井先生の議論を聴きながら、はっきり分かってきたことがあります。さっき浜崎さんが、春樹の作品の登場人物は「葛藤」と直接向き合わないという話をされていて、確かに僕もそういう印象があったのですが、それって要するに一種のシニシズムですよね。で、僕は本を読みながらけっこうボールペンで書き込むんですけど、どっかに漢字で「冷笑」って書きかけて、なんか違うなと思って止めたんです。シニカルというのは冷笑的と訳されますが、春樹の小説の登場人物はシニカルで冷たいとは思うものの、「笑う」感じはないんですよ。ポストモダン的な「冷笑主義(シニシズム)」は、全てをネタにして笑い飛ばしてしまおうみたいなところがありますが、村上春樹のシニシズムはどうも「冷笑」とは違う。