自分で決めれば逃げ道も後悔もない、節目ごとに巡り合うタイミングの良さ・福留孝介さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(41)
(1995年の夏の甲子園大会では、北海道工の下手投げ左腕が膝元へ投じた変化球を右越えに満塁本塁打)もう一回あの打ち方をしろって言われても多分できないぐらい、うまく打ったと思いますよ。技術的な確信があったかといったら、まだ高校生で、そこまでの確信はないでしょうね。 ドラフト会議では指名が抽選になると言われ、あの頃は意中の球団を公表することがご法度だったので一切言わなかったですけど、どの球団なのかは学校の先生や周りの皆さんは知ってたんで。 今はCS、BSといろんな放送があって、どこでも見られますけど、昔ってセ・リーグの試合しかやっていない。自分がプロに入った時に、実家のおやじおふくろ、おばあさんたちもテレビで見られる試合だという印象が、僕にはすごくあった。なのでセ・リーグに行きたいっていう思いが強かったですね。 ドラフト会議の中継は校長室で見させていただいた。近鉄に決まった時は校長室の電話を借りて「日本生命に行くよ」って親に言いました。
中学生の時もPL進学は最終的に自分で決めたんです。夜中の12時過ぎに担当の方に電話をかけて「テストを受けさせていただきます」って。自分で決めることによって逃げ道もないし後悔もない。 僕が社会人に進んだタイミングが良かったなと思うのは、ドラフトの次の年にアトランタ五輪があったんですよ。その日本代表にも選んでいただいた。そういう違う楽しさを、すぐに見つけることができました。普通に考えれば五輪なんて簡単に出られるものでもないですし、人生で一度あるかないか。それもまた一つ、自分の気持ちを(プロ入りから)切り替えるっていう意味で、すごくいいタイミングでした。 ▽純粋なものが観客の注目を集める大リーグ (99年、中日でのプロ1年目は132試合出場で打率2割8分4厘、16本塁打)出来過ぎじゃないですか。まさかそこまでと思ってなかった。内野であれだけのエラー(遊撃手ではリーグワーストの13失策)をしている中で星野仙一監督が我慢して使ってくださったんで、もう感謝しかないですね。2、3年目(ともに打率は2割5分台)はどうしても自分のイメージと結果が合わなかった。3年目のオフに監督や打撃コーチが交代し、この時に自分自身も何かを変えない限り、このまま終わってしまうなっていうのもありました。