老犬と暮らす(3)同じ名をつけ注ぐ愛情 亡くした愛犬の「供養」に
“私はここにいるよ”
案の定、魚影は全くなかった。杉浦さんの家の前から500メートルほど下流から釣り上がるも、アタリ一つなし。雪解けで水量が増している流れは、まだ氷のように冷たい。寒い時期に釣れたことのある落差3メートルほどの滝に最後の望みをかけてキャストしかけた時、川の中央付近に白っぽい固まりが見えた。「まさか」「やっぱり」という思いが交錯し、直視することはできなかったが、「肉球」がはっきり識別できたことで、ほぼ確信に変わった。 僕は静かに竿を畳み、数百メートル上流の杉浦さん宅に向かった。冷静を努めたつもりだが、やや早足だったかもしれない。うちのマメがまださつきの臭いを気にする庭先を抜け、杉浦さん宅のドアをノックした。「さつきちゃん、まだ見つかっていませんよね? たぶん、そうだと思いますが、川で……。もう亡くなっています」。杉浦さんの反応は素早かった。「行く行く!すぐに行く!」。そう言いながら、もう長靴を履きかけていた。 現場に向かう途中、僕は何度か「キツネかもしれませんよ」と杉浦さんに声をかけたと思う。でも、長年連れ添った飼い主が見間違うはずはない。さつきは、仰向けの状態で4本の足をまっすぐ天に向け、流れが集まる所に引っかかっていた。杉浦さんは僕が指差す先を目にした瞬間に、その場にがっくりとうなだれた。そして、川に入ってさつきを岸に上げた。僕は高齢の杉浦さんが流れに足を取られないよう、体を支えることしかできなかった。杉浦さんは、「せめて荼毘に付すことができます。本当にありがとう」と何度も言っていた。 数日後、近くのペット霊園で葬儀があった。さつきがお骨になった後、出席したご近所の奥さんが言った。「あんな誰も行かないような場所に、さつきちゃんがいなくなっているのを知っている内村さんが行ったのは奇跡だ」と。「呼び寄せたんだねえ、私はここにいるよ、助けてって」。杉浦さんも「まったく、不思議な偶然だ」と目をうるませていた。