【橘玲『DD論』インタビュー第1回】日本のリベラルは「民族主義の変種」? 善悪二元論はもう限界
橘 天皇を現人神とする「神政国家」だった日本に、敗戦によってアメリカからリベラルな価値観が持ち込まれ、GHQの若者たちを中心に先進的な憲法がつくられました。ところが今度は、その憲法が新しい神のような存在になり、「憲法を守れ」とか「戦争反対」と言っていれば世の中は良くなるんだという"信仰"ができてしまった。「世界で唯一、戦争を放棄した憲法九条のある日本は特別だ」というのは、民族主義者の論理とかぎりなく近いと思います。 また、いわゆる「八月ジャーナリズム」が広島や長崎、沖縄の犠牲を強調するいっぽうで、当時の日本のアジアにおける侵略性、加害性についてほとんど触れないことは「犠牲者意識ナショナリズム」と批判されていますが、リベラルを自称する人たちはこうした指摘をいっさい無視しています。これは、やはりリベラルを自称している労働組合が正規・非正規の「身分差別」にいっさい触れないのと同じで、グロテスクな欺瞞(ぎまん)です。 本来の多様性とは、自分にとって不愉快な主張にも寛容になることだと思いますが、人種やジェンダー、性的指向などが異なる人は歓迎しても、ポリコレ(PC/政治的正しさ)の厳しい基準に反した意見はいっさい認めないという偏狭さばかりが目立っています。もちろんこれはリベラルだけでなく、「ネトウヨ」と呼ばれる「日本人アイデンティティ主義者」にも顕著ですが。 アカウンタビリティ(説明責任)はリベラルな社会の大原則ですが、自民党の裏金問題を見ても、メディアは権力(政権)を叩く道具として、「十分な説明がなされていない」という正論ばかりを振りかざしているように思えます。そのいっぽうで、例えばジャニーズ事務所とメディアの癒着についてはいっさい触れず、なかったことにしているのですから、これでは信頼という資産を自ら毀損(きそん)しています。 その結果、アメリカのように大手メディアが知識層以外に信用されない社会になるのは、この国にとって不幸なことだと思います。 ※第2回「仕事がデキるのは『DD』な人」は9月2日(月)配信予定です。 ■『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』 集英社 1760円(税込) 面倒な問題をまともに議論する気のないメディアへの信頼感が失われ、SNSではそれぞれが交わることのない「真実」や「正義」を掲げる。――そんな世の中ではとかく嫌われがちな、しかしそんな世の中にこそ必要なはずの【DD(どっちもどっち)】な思考から、日本や世界がいま抱えている社会問題に鋭く斬り込む