波瀾万丈の現役生活から、チームの黒子たるGMに。バスケットボール青野和人さんのセカンドキャリア<前編>
昨夏沖縄開催で大いに盛り上がったFIBAバスケットボールワールドカップ 2023、映画『スラムダンク』がブームになるなど、バスケットボールへの視線が熱い。Bリーグにおいても、B2の越谷アルファーズがB1昇格を決め、埼玉県初のB1チームが誕生することとなった。プレーオフセミファイナルでの接戦を制しての悲願達成は、選手の奮闘、安齋竜三ヘッドコーチの手腕、チームを信じ続けた熱烈なファンの存在など昇格の要因は複数あるが、このチームを陰に日向に支え続けたゼネラルマネージャー(GM)青野和人さんの献身も見逃すことができない。スポーツに携わった者なら誰しも一度は憧れるスポーツクラブのGM。青野さんは一体どのようなキャリアを経て、このポジションにたどり着いたのか、そして一見華やかに見えるが意外と知られていないGMの役割について話を聞いた。 取材=村上成 撮影=須田康暉
目の前がいきなり真っ黒……。入団2回目の練習で廃部を知る
――青野さんの選手としてのご経歴ですが、東海大学付属第三高校(現 東海大諏訪)から京都産業大学を経て、1999年にバスケットボール日本リーグ2部の大日本印刷イーグルスへ入団。身長181センチにも関わらず、高い身体能力を活かして垂直飛びで両手のダンクシュートもできる非常にアスリート能力の高い選手だったと伺いました。 青野 はい。当時のバスケットボール界はトップリーグでも数人しかプレイできない狭き門でしたが、ご縁があって大日本印刷への入社が決まりました。ただ、入団して2回目の練習の際に、突然、今年でバスケットボール部が廃部になると聞かされまして・・・。バスケットボールだけに集中して生きてきていたので、いきなり目の前で幕を下ろされたというか、どうしていいのか分からない状態でした。 ――実業団でのバスケットボール人生が幕を開けた途端に、いきなり廃部を知らされて、その後はどうされていたのですか? 青野 その後、会社に残って少しだけ働きましたが、すぐに渡米し、2000年から2004年まで4年間のコーチ留学を経験しました。大日本印刷は大きな会社だったし、そのまま定年まで働くという選択肢はあったのですが、仕事を辞めて、アメリカに行くという無謀なことしてしまいました(笑) 私が選択したスプリングフィールドカレッジの大学院を目指すという形で、学生ビザを取りましたが、これはただ単に一番長く滞在できるビザが学生ビザというだけで、コーチ留学と、今でこそ公言していますが、当時の本当の気持ちはバスケの本場アメリカで、プレイヤーとしての自分の腕試しでしたね(笑) ――2003年にはNBA主催の6フィート以下選手が参加する3x3の大会で全米優勝をするなど、持ち前のアスリートの能力を活かして、体格の大きな相手ともしのぎを削ったとお聞きしました。アメリカでの武者修行を終えて、日本に戻りbjリーグの埼玉ブロンコスに入団されたのでしょうか? 青野 最初は腕試しだった見せかけのコーチ留学も、学びを進めるうちに本当にトライすることになりまして、そのままアメリカに永住しようと考えていました。しかし、日本でbjリーグが新たに立ち上がると聞き、身体も動きますし、トライアウトを受けようかという気持ちになったんです。