波瀾万丈の現役生活から、チームの黒子たるGMに。バスケットボール青野和人さんのセカンドキャリア<前編>
元NBA選手に口説かれて覚悟を決めたコーチ時代
青野 突如訪れた現役の幕引きでしたが、今だから言えますが「早くコーチ業に入ってよかったな」と思います。そのまま現役に固執していたら、コーチ業という椅子取りゲームで言えば、もし引退するタイミングが遅ければ、今のポジションはなかったかもしれません。 ――ベンワーコーチからの誘いが、現在のキャリアに至った1番最初の入り口ということになるのですね。その後、埼玉ブロンコスから、京都ハンナリーズにベンワーヘッドコーチ、青野アシスタントコーチとして共に招へいされることになるのですが。 青野 はい。新たなチャレンジとして京都ハンナリーズのお世話になりました。ところが、ベンワー政権1年目の途中で、結果が伴わずヘッドコーチのベンワーが休養。私がヘッドコーチ代行として残りの試合の指揮を執ることになりました。ベンワーを支えきれず忸怩たる思いもありましたが、代行としての仕事が評価され、翌年はヘッドコーチとしてやってくれとの打診を受けました。但し、ヘッドコーチ代行の1試合目で、私、退場してしまいまして。熱くなりすぎて・・・。 ――現在の温厚な青野さんに、そのような印象は全くないですね。 青野 デビュー戦で退場になるってなかなか聞かないと思うんですが、当時はキリキリしていたのでしょう。今でこそ、若年化が進んでますが、当時34歳でヘッドコーチに就任というのは、なかなかに若く。そこでの失敗が今では非常に良い教訓となっています。当時から「俺の言うことを聞けよ」とは一切思っていないつもりでしたが、第三者から見ると、そう思われてもおかしくない振る舞いだったのかもしれません。スタッフへのケアがあまりできておらず、選手のことばかりが気になっていました。スタッフ自らが積極的に提案するよう自主性を促し、方向性は私が示すような形が良かったのではないかと反省しています。所属していた選手は、素晴らしい選手をそろえていただいていましたし、焦りやプレッシャーもあったのかもしれません。
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