上野千鶴子が伝授「なぜ産まないのか」という"不産ハラスメント"への秀逸な切り返し3パターン
■子育てを楽しめない「不幸な母」に育てられた子どもは… 外圧で産んでも、ほとんどの人はその後立派に子育てをしていきますが、中には子育てが楽しめない「不幸な母」もいるでしょう。そういう母のもとに生まれ、愛されなかった不幸な子は昔もいまも山ほどいます。虐待やネグレクトを受ける子どももいます。 昔は家族がもっとスカスカしていたからよかったんです。周りにほかの大人がたくさんいて、家の中にも親以外の価値観や生き方が自然と入り込んできていましたし、家が嫌だったら近所の親戚の家に行くなど逃げ場もありました。 いまは多くの家族が閉じてしまっていて、姑に対して「子育ての価値観が合わないから介入しないでくれ」と言う母親もいます。子どもは首尾一貫した価値観で育てなくてはいけないと思っているんですね。本当は、世の中には多種多様な価値観があるのに。 子どもってしたたかなものですから、親がダメならほかの大人に当たって、自分に都合のいい価値観を見つけて成長していきます。うちにもよく女友だちの子どもが母親から逃げてきて、母親の愚痴をこぼしました。「しょうがないよね、お母さんああいう性格だしね。キミは悪くないよ」なんて相づちを打ちながら聞いたものです。 ■産まない人生を選択したことで母親を否定し、恨まれた 教育者としてもさまざまな子どもに接してきました。もちろん教育と養育は違いますから、私と親御さんとでは子どもにかけるエネルギーも時間も比べものになりません。けれども、子どもが短期間でぐんぐん知的に成長していく姿を見られるのは、教育者ならではの醍醐味でした。 教育っていわば洗脳装置ですから、「他人さまの産んだ子どもをかどわかして……」と気分はハメルンの笛吹き女でした。ほくそ笑みながらですけどね。 私はずっと親の価値観に反発してきました。そして母からは、産まない人生を選択したことでずいぶん恨まれました。自分が送ってきた人生を、娘が生き方で否定したんですからね。 これは前回のエッセイ集『ひとりの午後に』にも書いたのですが、私は死の床にある母に向かって「私はこの家を出てから必死になって自分を育て直したのよ」と言ったことがあります。死にそうな人に言う言葉か、でもいま言わなきゃもうチャンスはないと思って。 これに対する母の返事が、すばらしいというかすさまじいものでした。「そんなら結局、私の育て方がよかったってことじゃないの」ですって。絶句しました。