"総合格闘技のパイオニア"・西良典の拓大柔道部時代。禁断の質問をした部員に木村政彦は...
力道山との試合。それは1954年12月22日、蔵前国技館で行なわれた「昭和の巌流島決戦」を指す。試合形式はプロレスだったが、世間では「柔道が勝つか、相撲が勝つか」という見方をされ大いに盛り上がった。勝負は力道山が張り手の連打で木村をKOしたが、のちに「ブック(台本)破りだったのではないか」と言われ、いまだ物議を醸している。 力道山との一戦に触れられると、木村はムッとした面持ちでそのまま腕立て伏せ1000回を命じた。 そのとき西は思った。 「やっぱり力道山との試合は聞いちゃいけないことだったんですね」 卒業後は東京にとどまり、以前から興味のあった柔道整複師の資格がとれる柔道専門学校に進む青写真を描いていた。しかし、大学4年のある日、岩釣の一言で西の人生は決まる。 「仙台の柔専が、柔道が強い奴を欲しがっているから行け」 アスリートファーストの「ア」もない時代。体育会に身を置く者にとって指導者の命令は絶対だった。西は縁もゆかりもない杜の都へ行く決意を固めたが、新天地ではどうしてもキックボクシングをやりたくなった。調べてみると、仙台には地方のジムながらあまたのチャンピオンを輩出している「仙台青葉」というジムがあるではないか。整体の勉強をしながら、西は初めて挑戦するキックの練習に没頭した。 「スパーリングはあまりしなかったですね。サンドバックを相手に(ひとりで)ガンガンやっていました」 西の階級はヘビー級だった。ある日、仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長に告げられた。 「西、今度、『ゴング』に載るランキングにお前も入っているから」 『ゴング』とは、当時プロレスやボクシングと共にキックも報じていた格闘技専門誌だ。後日、その『ゴング』を手にすると、西は隅から隅までヘビー級のランキング表に出ているはずの自分の名前を探した。しかし、何度目を上下に走らせても見つからないので、瀬戸に尋ねた。 「どこに載っているんですか?」 「コイツだよ」 瀬戸が指を差した先には「長崎大作」の文字があった。長崎出身だから長崎大作。想像を遥かに超えるリングネームだった。 「このセンスは何?」 西は心の中で苦笑いするしかなかった。 (つづく) 文/布施鋼治 写真/長尾 迪