"総合格闘技のパイオニア"・西良典の拓大柔道部時代。禁断の質問をした部員に木村政彦は...
「藤原敏男さんの試合をよく見ていました」 気が向けばキックの会場にも足を運んだ。1977年11月14日、日本武道館で行なわれた『格闘技大戦争』。メインイベントは、翌年にタイ人以外で初めてムエタイ二大殿堂のひとつ、ラジャダムナンの王者となる藤原敏男とムエタイ戦士による国際戦だったが、セミファイナル前に組まれた佐山聡(新日本プロレス)対マーク・コステロ(米国)の2分6回戦が印象に残っているという。そのあとにはリングサイドの顔ぶれも気になった。 「ウイリエム・ルスカが来ていたんですよ。そのとき『柔道は怖くない。俺に打撃があれば、絶対ルスカを倒せる』と思いましたね」 柔道やレスリングなど組み技系格闘技ならば組み技の道を、空手やキックボクシングなど打撃系格闘技ならば打撃の道を突き進む。それが当たり前の時代だったが、西は既存の価値観に縛られていなかった。だからこそ前年度にアントニオ猪木と異種格闘技戦で二度も闘ったルスカに関心を抱き、「仮想・異種格闘技戦」をイメージしたのだろう。 柔道や空手だけをやっている者からすれば「どっちつかず」というふうに見られても不思議ではなかったはずだ。しかし、この西の価値観こそが日本の総合格闘技の息吹ではなかったか。 1970年代、この世に総合格闘技はなかった。いや、正確にいえば、1920年代からブラジルには総合格闘技の原型となるバーリ・トゥードが存在しており、果たし合いやサーカスの余興として行なわれていたが、世界的に知られているわけではなかった。 増田俊也著『なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか』によれば、昭和50年代に岩釣は日本の地方都市で開催されていた非合法のバーリ・トゥードのチャンピオンとして活動していたというが、ちょうどその時代に岩釣から柔道の指導を受けた西は師の非合法活動など知る由もなかった。 「ちょうど我々が1年生の頃、岩釣先生が(全日本)プロレスに行くという噂は聞いていました。『木村先生の敵討ち』という話もあったけど、実際にはどうなんですかね。生活のためにやるという部分もあったんじゃないですかね」 ■「仙台の柔専に行け」 その後、西は拓大柔道部員としてのキャリアを全うした。木村政彦とは顔を合わす機会は何度もあったが、拓大柔道における木村の立場は天皇に等しく、言葉を交わすなどもってのほかだった。ただ、こんなシーンは覚えている。鹿児島実業出身で現在は地元で県会議員を務める部員が木村に尋ねた。 「先生、力道山さんとの試合はどうだったんですか?」