「平氏にあらずんば人にあらず」の世を築いた平清盛 “瀬戸内海の掌握と治安維持”は投資であると同時にリスクマネジメントでもあった【投資の日本史】
一門を挙げての厳島参詣で「瀬戸内海掌握」を誇示した清盛
ここにある「神人(じにん、じんにん)」とは神社の下級神官や雑役要員、「運京船」は都へ税を運ぶ船舶を指す。つまり、瀬戸内海沿岸の港湾は大寺社の支配下にあり、彼らは借金の取り立てを名目に都へ運ばれるはずの税(米や絹布)を奪い取っている。被害届は出されているが、朝廷にはそれを取り締まるだけの覚悟と武力に欠けていたということである。 従来、源義家一門の関心は東国にばかり向けられ、海戦を伴う西国への遠征には気乗り薄だった。そこで白羽の矢を立てられたのが平正盛一門だったというわけだ。下向井は前掲書で両院の腹積りについて、次のように断言する。 〈白河院・鳥羽院が、正盛・忠盛を名実ともに源氏に代わる武家の棟梁に育て上げるために与えた機会が、海賊追討である〉 〈院の意図は、凱旋パレードで忠盛を武家の棟梁として認知させて昇進させ、西国武士を郎等として組織させることだった〉 〈それは同時に、有力寺社が港湾荘園と神人によって個別に握っている海運ルートを寸断し、平氏を通して瀬戸内海を掌握することであった〉 単刀直入に言えば、正盛・忠盛父子は白河・鳥羽両院の駒であって、それ以上でもそれ以下でもなかったが、正盛・忠盛は西国武士との主従関係構築に加え、中央での立身出世に必要な私財の備蓄にも好都合なことから、両院の手の平の上で踊らされることに不満を抱かなかった。将来に向けての投資と受け止めたのである。
だが、清盛の考えは異なり、祖父と父が築いた礎を引き継ぎながら、清盛にはいつまでも駒や猟犬の立場に甘んじるつもりはなかった。長寛2年(1164年)9月、一門を挙げて行なった厳島神社への参詣と納経は多分に政治的な意味を帯びていた。 厳島神社は瀬戸内海の西端近くに位置していたから、これまた下向井前掲書の言葉を借りれば、〈厳島参詣は、平氏が瀬戸内海航路を掌握し航行の安全を保障していたからこそ可能〉なことで、〈瀬戸内海掌握を誇示する清盛のデモンストレーション〉以外の何物でもなかった。
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