「平氏にあらずんば人にあらず」の世を築いた平清盛 “瀬戸内海の掌握と治安維持”は投資であると同時にリスクマネジメントでもあった【投資の日本史】
白河・鳥羽両院の「忠実な猟犬」となった清盛の父と祖父
話は清盛の祖父・正盛(生年不詳-1121年?)の代にさかのぼる。政体は摂関政治から院政へ移行したばかり。朝廷の実権は白河院(上皇。1053-1129年)の手中にあったが、そんな白河院にも「天下三不如意」と言って、意のままにならない事物が3つあった。 「鴨河の水、双六の賽、山法師」がそれで、「双六の賽」とはサイコロの目、「鴨河の水」とは平安京の東を南北に流れる鴨川(賀茂川)の氾濫、「山法師」とは僧兵の強訴に代表される、比叡山延暦寺や園城寺、興福寺など大寺社による横暴を指していた。 大寺社による横暴に対抗するには武士の力を頼るほかなかったが、当時の武士では前九年・後三年の役(1051年と1083年に東北で起きた戦乱)の当事者である源頼義・義家一門が実力と知名度の両面で群を抜く存在だった。しかし、白河院とその後を継いだ鳥羽院(1103-1156年)は勝手な行動を取りがちな義家一門に対して信を置けず、都で奉仕する武士団の中でも弱小の部類に数えられる平氏一門に着目した。
源義家一門が第56代の清和天皇(在位858~876年)に源を発する河内源氏の嫡流であったのに対し、平正盛は第50代目の桓武天皇(在位781~806年)に源を発する伊勢平氏の傍流。白河・鳥羽両院は正盛・忠盛父子であれば問題ないと考え、忠実な猟犬に育て上げることにした。いわば白河・鳥羽両院による投資である。 武家の棟梁として名実相伴う存在とするには、受領国司の歴任や強訴の阻止だけでは足りず、実績を挙げさせる必要があった。そのため両院は一挙両得の策を選ぶ。瀬戸内海の海賊討伐がそれだった。 瀬戸内海の海賊行為と言えば、藤原純友の乱(939~941年)が有名だが、院政期の海賊は謀反を起こすわけでも、略奪を本業とする者でもなかった。その実態について、奈良・平安時代の軍制・国制を専門とする下向井龍彦(広島大学大学院教授)は、著書『武士の成長と院政 日本の歴史07』(講談社学術文庫)の中で次のように説明する。 〈有力寺社は、瀬戸内海沿岸の各地に港湾荘園をもち、武装した僧徒・神人たちによって独自の海運ルートを確保して、相互に競合していた〉 〈院政期の瀬戸内海では、石清水神人・祇園神人らが、荘園年貢を元手に上は権門勢家・国司から下は一般民衆までを相手に手広く出挙(*高利貸付)活動を行い、国衙や荘園の運京船に乗り込んで略奪的な債権取り立てを行うようになっていた。これが院政期の海賊の実態である〉 【※引用文〈 〉内の(*)は引用者による注釈。以下同】
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