「俺がいなかったら、子どもたちの命は助かっていた」 津波で3人の子を失った木工作家の「あの日」 【東日本大震災】 #知り続ける
辺り一面が「海」に変わった
めがねを失い、視界が利かない。数時間後、津波が引き始めると、コンビニの屋根の上に登り、周囲を見渡した。一面が「海」になっていた。 生き残ったのは、俺だけなのか──? そう絶望していると、近くで電柱にしがみついて助かった夫婦がいることに気づき、合流して一緒に自宅近くの渡波保育所に向かった。 保育所では近隣住民らがたき火をたいて体を温めていた。すぐにでも自宅に駆けつけたかったが、周囲は夜の闇とがれきに覆われて近づくことさえできない。 彼は右足首を骨折し、両足は釘を踏み抜いて血だらけだった。
2人の娘の遺体を運ぶ
震災翌日の早朝、遠藤が木の枝を杖代わりにして自宅へと向かうと、家は跡形もなく、基礎から完全に流されていた。 「誰かいませんか……」 自宅の近くで高齢者が力なく泣いていた。 よく見ると、母の恵子だった。8歳の奏を胸に抱いていた。 「奏ちゃん、冷たいんだ、冷たいんだ……」 聞くと、津波が押し寄せた瞬間、恵子は3人の孫たちと一緒に自宅の平屋にいたらしかった。濁流にのみ込まれた直後、天井を頭でぶち抜いて、恵子は助かっていた。平屋は砕けて陸側に数十メートル流され、津波が引いた後、家の残骸から孫の遺体を見つけたという。 震えながら報告する母に、遠藤は精神の髄が壊れてしまいそうだった。泥まみれの奏を抱きしめると、いつも「ほっぺにチュー」をせがんだ愛娘は氷のように冷たく、頭髪からは無数の砂が出てきた。 「俺のせいだ。俺が学校から家に連れ戻しさえしなければ……」 奏の遺体を保育所へと運び、2階に担ぎ上げて布団に寝かせると、彼は長女の花と長男の侃太を探すため、再び自宅周辺へと戻った。 到着後まもなく、崩壊した平屋の廊下から花の体の一部が見えた。でも、冷蔵庫が廊下にめり込んでいて、体を取り出すことができない。外側の壁を崩し、なんとか娘の体を引っ張り出すと、人を笑わせるのが大好きでいつも微笑んでいた花の顔が泥だらけだった。 中学生になっていた花の遺体は1人で運ぶことができず、津波で流されてきた家屋の扉に載せて6人がかりで保育所へと運んだ。 「俺だ、俺が殺したんだ……」 保育所の2階で冷たくなった2人の娘の遺体を抱きながら、彼は夜が明けるまでうなり続けた。 *** 震災発生時、遠藤さんの妻、綾子さんは勤務先の病院にいた。中編では侃太君との悲しい再会と綾子さんから見た「その日」、そして後編では夫妻の再生の物語をお伝えする。 ※本記事は、新聞記者でもある三浦英之氏が被災地の取材を続ける中で「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということを震災から12年たって初めて知り、その外国人被災者たちの足跡をたどった著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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