「俺がいなかったら、子どもたちの命は助かっていた」 津波で3人の子を失った木工作家の「あの日」 【東日本大震災】 #知り続ける
南三陸で過ごした日々がつないだ縁
取材のきっかけとなったのは、私が震災直後に1年間、宮城県南三陸町に住み込んでつづった『南三陸日記』だった。かつて朝日新聞紙上で連載し、後に書籍化されたそのルポルタージュを、遠藤の妻が愛読してくれていたのだ。 「三浦さんって、もしかして『南三陸日記』の三浦さん?」 取材依頼の手紙を送るとすぐに、私のスマートフォンに遠藤からの着信が入った。 「実は俺の妻が『南三陸日記』の大ファンでさ。2冊も購入して自宅に持っているんだよね。妻にも相談したら、もしそれが本当に『南三陸日記』の三浦さんなら、絶対に取材を受けた方がいいって言われてさ……」 同著が2019年に文庫化される際、私はその表紙に、震災4 カ月後に私が立ち会う形で生まれた少女──彼女は震災時はまだ母親の胎内におり、津波で父親を失っていた──が小学校に入学した日の写真を掲載していたが、3人の子どもを失った遠藤も震災後、何かのイベントでその少女と同席することがあり、以来親交を温めているらしかった。 南三陸で過ごした日々が、私と彼を結びつけてくれた。 初回のインタビューは2022年12月、遠藤が制作場所として使っている宮城県東松島市の木工場で行われた。 「インタビューに入る前にちょっと聞いておきたいのだけれど……」 彼は取材前、緊張気味の私ににこやかに尋ねた。 「実はこの木工場、トイレが壊れて使えないんだよね。申し訳ないんだけれど、もし必要なら近くのコンビニにお世話にならなければいけない。大丈夫かな?」 それが取材に入る前のお決まりの挨拶なのだろう、遠藤は私の顔をのぞき込むようにしてそう言うと、ニッコリと笑った。
優しすぎるほど、優しい男が抱く絶望
初めて面会した木工作家は、優しすぎるほど心の優しい男だった。外見は筋骨隆々の坊主頭で常に薄いサングラスを掛けており(本人は木工をやっていると筋肉もつくし、木くずが飛び散るので坊主頭が楽なんだと話していた)、港町でよく見かける強面の漁師といった風貌なのだが、実際に言葉を交わしてみると、話はユーモアに溢れ、相手への細やかな気配りを忘れない。 身の丈を超える悲しみを経験すると、人は優しくなれるのだろうか──。 私はそんなことを考えながら、「それではインタビューを始めさせてください」とデジタル一眼カメラの録画ボタンを押した。 「俺の人生はもう終わっているんです」 遠藤は冒頭、すでに人生を諦めたような、悲しい言葉でインタビューを始めた。 「あの日、俺がいなかったら、たぶん子どもたちの命は助かっていたんです。そうじゃないよって言ってくれる人もいるけれど、でも客観的に考えてみれば、やっぱりそれが事実です。俺が小学校から長男と次女を連れ帰らなかったら、当然あいつらは生きていたわけだし、俺が『父ちゃんがいるから大丈夫だぞ』なんて言わなければ、家にいた長女だってきっと祖母と一緒に逃げていたかもしれない。全部、俺のせいなんです。だから……」 話し始めた遠藤の目元がデジタルカメラには映らない。 そのとき初めて、私はなぜ彼が普段から薄い色のサングラスを掛けているのかわかった気がした。