林家木久扇『笑点』の卒業を決めた理由「30歳から出演して、もう86歳。歌丸さんとの海外旅行話は、葬儀でも大笑いに」
番組としていちばん思い出に残っているのは1978年、番組初のサンフランシスコでの海外収録でしょうか。日本テレビ開局25周年記念の企画でもあったので、ロケも大がかり。サンフランシスコ名物の路面ケーブルカーで、車掌さんがジャズの曲に合わせてベルをチンチーンって鳴らす様子なども撮影して。 大喜利は、現地に住む日本人と日本語勉強中のアメリカ人で大入り満員。座布団運びは、ミス・サンフランシスコが務めてくれました。その大喜利で僕は、さっきケーブルカーで聞いた「セントルイス・ブルース」って曲に「いやんばか~ん」って歌詞を乗せて歌ったんです。 そしたら会場は大爆笑。ものすごい拍手とピーピーって口笛で盛り上がりました。日本に帰ってからレコードにすると、15万枚のヒット。子どもから大人まで真似してくれましたよね。 僕は大喜利メンバーに入った当初、自分をどう売り出していくか迷った時期がありました。その時、は大好きだった嵐寛寿郎さんの『鞍馬天狗』を真似した、「杉作、日本の夜明けは近い」というセリフで自分なりのキャラクターを打ち出すことができた。 「いやんばか~ん」はそれに続くヒットでしたし、その後も木久蔵ラーメンを始めると「まずい」だの「保健所が入った」だの茶化してもらって笑われて。そういう話題の山を作るのが、自分でもうまいなあと思います。 (構成=山田真理、撮影=木村直軌)
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