林家木久扇『笑点』の卒業を決めた理由「30歳から出演して、もう86歳。歌丸さんとの海外旅行話は、葬儀でも大笑いに」
去る人がいれば新しく入ってくる人もいる。ここ最近で大喜利メンバーの若返りが進んできたのは、良いことだと思っています。桂宮治さんは明るくてふてぶてしくて、先輩を上手に立てているようで、腹の中では何を考えているのかわからないところがある。 春風亭一之輔さんは、毒のあるインテリジェンス。僕が座布団もらって喜んでると、「じじぃのくせに」とぼそっとつぶやく間がとてもいい。お二人が番組の空気感を変えてくれたと思います。 落語家というのは、いっちょ前になるまでに何十年という年月がかかります。芽のある人を早く発見して世に出しておくことは、落語界にとって大事なこと。『笑点』でも出演者が亡くなったり病気で退くことになって初めて、「なんとかしなきゃ」と大騒ぎするんじゃなく、つねに新しい人を探してキープしておくことが必要でしょう。 僕が23年の8月に卒業を発表してから、半年以上の時間がありました。僕の次が誰になるかはまったく知らないし、人選にもノータッチです。まあ誰になろうと僕と比較されるわけだから、よっぽど面白くなきゃ大変だと思いますけれどね。(笑)
◆話題の山を何度も作って 僕が『笑点』に初めて出たのは、30歳のとき。番組を立ち上げた談志さんのカバン持ちをしていた縁で、まずは「若手大喜利」に呼んでもらい、その2年後に大喜利のメンバーになりました。 談志さんはブラックユーモアが大好きでね。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ってビートたけしさんで有名になったギャグも、もとは談志さんの口ぐせだったんです。番組も当初は談志さんのそうした世界観がウケていたのだけれど、いかんせんブラックユーモアというのはお茶の間に向かない。 「このままでは番組が成功できない」ということで、メンバーを大幅に入れ替えた。あの頃がいちばん波風の立っていた時代でした。 大喜利メンバーとのお付き合いで思い出深いのは、歌丸さんと二人でシンガポールと台湾とタイへ行ったこと。関西のクイズ番組に一緒に出たら優勝しちゃって、僕は嫌だなあと思ったのだけど(笑)、歌丸さんは初めての海外だからというので一緒に行くことになったんです。 これがまあ珍道中でね。タイは出国する時に持ち出せる通貨に制限があって、当時の日本円で30万円以上持っていると税関で取り上げられちゃうんです。歌丸さんは初めての海外ってことで、張り切って100万円くらい両替していて。 「没収されたらもったいない」というので、タイの空港のトイレに二人で入って、お互いの体にお札をペタペタ貼って隠そうとしたんです。 それで体中ガサガサさせながら搭乗口へ行って、「僕らの乗る便はどれですか」と聞いたら、空港職員さんが「あれです」って飛んでる飛行機を指さした。つまり乗り遅れちゃったの。その話を歌丸さんの葬儀でしたら、せっかくしんみりしてたのにみんな大笑いになりました。(笑)