「模擬原爆」投下から70年 大阪東住吉の爆心地跡で追悼式
「模擬原爆」投下から70年 大阪東住吉の爆心地跡地で追悼式 THE PAGE大阪
1945年7月26日に大阪市東住吉区田辺に米軍の大型爆弾が投下され7人の命が奪われた。めったに空襲がなかったこの地に突如落とされた爆弾。当時、地元では「1トン爆弾が落とされた」などと言われていたが、約50年後に、広島・長崎に投下された原子爆弾のテスト版とされる「模擬原爆」であったことが分かった。その投下から70年たった26日午前、爆心地付近で「模擬原爆追悼式」が行われ、当時を知る地元の人や小・中学生らが集まり、犠牲者の冥福を祈った。当時を知る女性らは「できる限り当時のことを伝えていきたい」と話している。
50年たって分かった模擬原爆投下の事実
追悼式実行委員を務める吉村直樹さん(68)らによると、模擬原爆は1945年7月26日午前9時26分、米軍の爆撃機「B29」が同区の田辺小学校北側付近にあった料亭「金剛荘」に大型爆弾を投下したとされる。 「当初地元では1トン爆弾だといわれてましたが、約50年後に愛知県春日井市の市民団体が米軍の資料から、米軍の資料の中から、原子爆弾を投下する実験として国内に49発投下した模擬原爆(通称「パンプキン爆弾」)であることを突き止め公表されました」と吉村さん。それが後に報道され、今では知られるようになってきたという。 田辺への投下から11日後に広島、14日後に長崎に原子爆弾が投下された。そして、その前後にも全国各地で模擬原爆を投下したことがその資料には記録されているという。
当時爆心地近くにいて当時知る女性、九死に一生
追悼式典では、犠牲者への冥福を祈る黙祷が行われた。そして、当時、国民学校教諭として爆心地近くの工場へ学徒動員の生徒20人を引率していた同区在住の龍野繁子さん(90)は「金剛荘から西へ150メートルの地点にいて、私がいた隣の部屋に大人が両手で抱えきれないほどの石が落ちてきて屋根と2階、1階の床を突き破りました。もし私が隣にいたらと思うとゾッとしました」と当時を振り返った。 龍野さんは「金剛荘にはきれいな日本庭園があり、そこにあった石が150メートルも宙を舞い、工場へ落ちてきたと思う」と話す。この爆弾によって、死者7人、重軽傷者73人、被災者は2000人弱にのぼったという。龍野さんは、けさ会場へ来る前に、爆心地そばに住み、この爆弾によって亡くなった自身の姉の親友だった「トシちゃん」に「行ってくるからね」と手を合わせてきたことも明かした。 この話が行われた後、投下時刻に参加者全員で黙祷が行われ、犠牲者の冥福を祈った。また、大阪府内各地から多くの小・中学生らも参加し、各学校の代表者が平和への思いなどを発表した。