昔は梅田駅と堂島川をつなぐ堀があった!?水運のために造られた川の跡を巡る旅
ミキの昴生と亜生がMCを務める、全国の道に特化したバラエティ番組『道との遭遇』。今回は、川が流れていた場所の上にできた"暗渠道(あんきょみち)"をこよなく愛する道マニア歴14年の髙山英男さんと、大阪府にある"暗渠道"を巡ります。
江戸時代、船を通すために造られた人工の川
髙山さんと一緒に旅をするのは、一般の女性。 (道マニア・髙山英男さん) 「大阪には昔、水運のために造られた川や堀がたくさんあって水の都だった。暗渠道を巡って、水の都の歴史を紐解きたい」 2人が訪れたのは、北区。「堂島川から分かれて始まる川が昔あった」と髙山さんは言います。大阪市役所の北側を探索すると、橋の名前「しじみばし」と書かれた石碑を発見! 「蜆川」は江戸時代、船を通すために造られた人工の川で、大江橋付近で堂島川から分かれ、下流の上船津橋付近で合流。蜆がよく獲れたことから名付けられ、近代建物を工事する際には蜆の貝殻がたくさん出てきたそう。「しじみばし」の石碑は、建物の角に埋め込まれた姿で残されています。
焼けた瓦礫の捨て場に… 姿を消した「蜆川」
さらに蜆川の痕跡を辿って西に歩くと、「櫻橋」と書かれた石碑を発見!「櫻橋」は倒れた桜の木が橋の役目をしていたことに由来し、その後新しく架けられたそう。 明治7年、大阪~神戸間の鉄道開通をきっかけに当時の大阪駅が置かれたとき、市街地から駅へ通じるメインルートに「櫻橋」が架かっており、「ステーション道」と呼ばれるほど重要な役割を果たしていました。 石碑の側面には蜆川が無くなった理由が書いてあり、「大きな火事で出た瓦礫を、ここにあった蜆川に埋めたから川が無くなった」と髙山さん。 明治42年(1909年)、大阪北部を襲った明治最大の火災と言われる「北の大火」。蜆川は瓦礫の処分場所として利用され、出入橋から東側が先に埋め立てられ、大正13年(1924年)に全てが埋め立てられて蜆川は姿を消しました。 (道マニア・髙山英男さん) 「暗渠は地面の下に水が通っている状態を言うが、水がなくても川の魂がまだここにいるような気がする。蜆川があってのキタの繁栄」