民進党の細野豪志氏が離党表明会見(全文1)裸一貫、1人で立ち上がる決意
民進党の細野豪志元環境相が8日午後2時半から記者会見を開く。自身の離党について表明するものとみられる。 細野氏は4日、党内の自身のグループ会合で民進党を離党する意向を表明したと報じられている。
離党届を提出
司会:それでは会見を始めます。よろしくお願いします。 細野:今日はお集まりいただきましてありがとうございます。先ほど野田佳彦幹事長に離党届を提出してまいりました。私は18年前に当時の民主党に入党いたしました。28歳という若さだったんですけれども、それこそ政治に当時、必要であるといわれておりました地盤も看板もかばんも何もないところから民主党がチャンスをくれたわけです。落下傘候補で本当に大変な選挙でありましたけれども、運と縁とに恵まれて初当選をいたしました。 その後、仲間と一緒に政権を目指して、2009年には政権にたどり着くことができました。政権運営そのものは大変困難でしたけれども、私自身は責任のある立ち場で、国民のために働く機会もいただきました。それだけに2012年に下野したあとも民進党を、民主党、そしてそのあと民進党になったわけですが、この党を立て直すことによってもう1回、政権を目指そうという思いで、これまで努力をしてまいりました。 正直申し上げて、先ほども野田幹事長に離党届を出してまいりましたが、今でも民進党に対する愛着は私の中にあります。また大変尊敬できる先輩や同僚に、そして自治体議員、家族、今も私の友人がたくさんおります。それだけに離党という決断は非常に苦しいものでしたけれども今回、そのような判断をいたしました。 2年ほど前から、党の在り方に疑念を持つようになりました。きっかけは安保法制です。当時、私は政調会長をやっておりまして、特に北朝鮮、さらには尖閣、そういったことに対応できるような具体案を用意いたしましたが、国民の中では安保法制廃案という声が非常に大きくなりまして、それを受ける形で、結局は当時の民主党はこの法案を国会に提出することなく、反対に終始をすることになりました。政調会長として責任のある立ち場にあった人間としては、具体案を提示をしたいということで党内では私なりに懸命に主張したわけですが、それができなかったということに関して今でも非常に無念の思いと、そして後悔の念というのが私の中にございます。 実は2002年から2003年の有事法制のときの対応を私は当時、思い出していたんです。当時も民主党の中には有事法制そのものに反対すべきだという意見もあったんですが、私も1年生議員でしたのでかなり強く主張いたしまして、こういった問題は党派を超えて対応すべきである、そう考えまして2002年から2003年の間、与野党で協議をして有事法制を野党であった民主党も賛成をして成立させるということをやりました。本来、政権交代可能な二大政党制というのは、私はそういうものだというふうに思っております。 従って、あの安保法制の国会のときは、確かに安倍政権の乱暴な政権運営、国会運営というのはあったと思います。そこは事実。しかし、なんとかそれを乗り越えて与野党の合意を目指す、その道を取らなかった当時の対応は、私はその後の民進党の在り方に影響を及ぼしたというふうに思っています。 その結果として参議院選挙、昨年ありましたけれどもそこで野党の間で選挙協力が浸透いたしました。その中には共産党も含まれております。当時は参議院選挙のみの選挙協力ということがいわれておりましたが、その後、総選挙の可能性がいわれるようになって、この総選挙でも選挙協力のさまざまなことが検討されるようになりました。その中で、私の中に党を離れるという選択肢が芽生えてまいりました。 憲法も1つの理由であります。4月に憲法改正の試案を発表いたしました。その気持ちというのは、野党である民進党からもしっかり憲法の提案をして、そしてそこも与野党でさまざまな話し合いが行われるべきだと、そんな思いがございましたが、残念ながら党内での憲法の議論は前に進みませんでした。その背景には4月5日に交わされました4党の考え方。その中に憲法改悪の阻止というものが含まれておりますので、それが少なからず影響を及ぼしたと私は考えています。 基本政策の根本的に異なる共産党との共闘というのは私の信念に反します。長く所属してきた民進党という政党を離れるというのは本当に苦渋の選択ではありますけれども、断腸の思いで党を離れるという決断をいたしまして、本日、離党届を提出してまいりました。 私が政治家を志した原点は1993年。このとき実は私は初めて投票する権利を得たんですが、あの選挙で細川政権による政権交代が実現したことです。自分が初めて投じた1票で政権交代が実現をした。しかも55年体制のようなイデオロギーではなくて、政策本位で有権者が選択できる。ついにそういう時代が来たというふうに感じたのが今でも思い出されます。そういう思いがありましたので、1998年に民主党が、今に連なる民主党が設立をされたときは迷うことなく、そして胸を躍らせてこの党に入りました。そして2000年の選挙で動線をさせていただいたということであります。