「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷
ユルい体育の先生の姿
また、大学で体育の授業や先生に関する講義をしていると、受講している大学生から、彼らが中学校や高等学校で出会ってきた体育の先生の話を聞くことがよくあります。すると、なかにはトンデモない先生たちがいることがわかってきます。 たとえば、授業では出席をはじめに確認するだけで、「あとはお前たちでやっとけ」と言って授業を生徒に丸投げする先生。それから、「じゃあ試合やっとけ」と言って、一年中、バレーボールやサッカーといった一つの種目の試合だけをただやらせている先生。さらに、生徒に何をやるか伝えると、おもむろに体育教官室に戻って行く先生。なかには、授業中に体育館で居眠りをする先生までいるそうです。 あまり体育の先生の醜態を世に曝すのも心苦しいので、これくらいで勘弁していただきたいと思うのですが、少なくとも、このような体育の先生が21世紀のこの日本に存在していることは、残念ながら事実のようです。そして、このような体育の先生の姿は、上述のメディアに描かれるような怖いイメージよりも、あまり目立ちません。なぜなら、このような体育の先生は、必ずしも「体育ぎらい」に直結していないように思われているからです。一体どういうことでしょうか。 「体育ぎらい」のなかには、前章で論じた「規律」や「恥ずかしさ」を理由に体育が嫌いになった人もいれば、次章以降で論じる「スポーツ」や「運動」が嫌いだから体育も嫌いになったという人もいます。しかし、この両者にとって、ここで示したような「ユルい」体育の先生とその授業は、そこまで「嫌い」な対象とはならない可能性があります。なぜなら、そのような「ユルい」先生は、授業において、生徒に働きかけることが少ない、もしくは、そもそもないからです。 確かに、授業を生徒に丸投げする先生に、無理矢理走らされたり、怖い跳び箱を跳ばさせられたりすることはないわけです。生徒の側からすると、そのような体育の先生は、ある意味では「無害」な存在になるかもしれません。つまり、「好き」とか「嫌い」ではなく、むしろ「関係のない」存在になるわけです。 このように言うと、そのような「ユルい」先生は、「体育ぎらい」にとっては「救世主」のように見えるかもしれません。だって、いろいろと強制されたりしないわけですから。しかし、もちろん現実はそう単純ではありません。むしろ「ユルい」体育の先生には、「体育ぎらい」を新しく生み出してしまう可能性さえあります。