「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷
「君が論じている体育の先生は、男だけだよね」の衝撃と反省
このスポーツのコーチ的なイメージは、場合によってはより広く、「スポーツマン的」と言われることもあります。確かに、個人的な経験を思い出してみても、職業が体育の先生だと言うと、「じゃあスポーツ万能ですね」といった反応をされることは少なくありません。 ちなみに、この「スポーツマン」という言葉、最近ではあまり使われなくなってきています。なぜかというと、スポーツマンの「マン=man」という言葉遣いが「man=男性」の意味を強く持っているため、「woman=女性」を含めないニュアンスが出てしまうからです。このことは、たとえば、かつて看護「婦」さんと呼んでいたのが、現在では看護「師」さんと呼ばれるようになっていることと、同じような変化だと言えます。 それと同じ論理で、スポーツマンを「スポーツパーソン」と呼ぶようになってきてもいます。これに付随して、「スポーツマンシップ」を「スポーツパーソンシップ」と呼ぶ場合も出てきているようです。 体育の先生を考える本章でなぜこのような話をしたかというと、このジェンダーの観点が、体育の先生についても同様に重要だと考えられるからです。私がこのことを痛感した例を挙げて、確認してみたいと思います。 私が大学院生であったときの話です。体育の先生に関する研究の発表(博士論文の公開審査会)を行い、発表を聞いてくださった先生方からの質問に答えていました。質疑の時間がほとんど終わりかけていたときに、ある先生に次のように言われました。「君が論じている体育の先生に、女性は含まれていないんじゃないですか?」と。これは、衝撃的な質問でした。 なぜそれが衝撃だったのかと言うと、本当に恥ずかしいことですが、それまで何年も体育の先生に関する本や論文を、読んだり書いたりしてきたにもかかわらず、そのことをきちんと自覚したことがなかったからです。 もちろん、女性の体育の先生の授業を受けたことは何度もありましたし、職場でも毎日女性の体育の先生と顔を合わせていました。しかし、いざ真剣に体育の先生のことを考えようとすると、まさにその「イメージ」として浮かんでくるのは、男性の体育の先生だったわけです。私はその質問を受けて、自分でもビックリしてしまいましたし、それと同時に、深く反省もしました。 みなさんはどうでしょうか。この話を聞くまでに、本章を読みながらイメージしていた体育の先生には、女性の先生も含まれていたでしょうか。一度、振り返ってみてください。