「悔しさをエネルギーに変えて成長」【前編】 箱根駅伝〝三代目・山の神〟が振り返る快進撃の背景/神野大地(青学大ОB)
2年目に飛躍を遂げたきっかけとは?
――そして、2年目で一気に力をつけたのですが、飛躍した要因やきっかけは? 神野 大学の陸上部は部員数も多く、監督の中で目が留まる選手になるには結構大変です。2年生になったばかりの4月末に日体大記録会(日体大長距離競技会)があり、青学の場合、5月の関東インカレで10000mを狙う選手が10000mに出場し、それ以外は5000mに出ることになっていました。僕は当然、関東インカレレベルの選手ではなく、他のみんなと5000mに出ることになっていましたが、1つ上の先輩で、翌年度、箱根駅伝で初優勝する時のキャプテンになる藤川さん(拓也、現・中国電力)に何気なく「本当は10000mに出たいのですが、今の実力ではそんなこと言う権利もないですよね~」と話したら、「神野は5000mより10000mの方が得意なんだから、監督に『10000mに出たい』って言ってこいよ」と後押ししてくれたんです。そこで、勇気を出して原監督の部屋に行き、「今度の日体大記録会は5000mではなくて10000mに出させてほしいのですが」とお願いしたら、監督は「はい、どうぞ」と二つ返事。おそらく、僕が10000mで結果を出すことを想像すらしておらず、出たいならば勝手にどうぞ、という程度の気持ちだったと思うのですが・・・・・。 ――その日体大記録会の10000mの結果は? 神野 自己ベスト(30分16秒)を大幅に上回る29分01秒を出せたんです。そのタイムは当時の青学ではトップ5ぐらいに入るもので、他に関東インカレで10000mの代表を狙う選手たちよりも良かったので、関東インカレの代表にもなれて、そこが僕にとって大きく変われたところだったなと感じます。 ――自身の気持ちや、周囲の見方にどんな変化がありましたか? 神野 1回チームの代表になると、原監督には「こいつは外せないポジションだな」って思ってもらえて、負担がかかる選手選考の争いに加わることもなく、部内でも重要人物として見られる。あの日体大記録会でそのまま5000mに出ていたら、おそらくチーム内で15番手ぐらいの結果でインカレの代表にもなれず、監督の目に留まることもなかったでしょうから、「10000mに出たい」と言いに行って本当に良かったと思っています。 ――そして迎えた関東インカレでどんな走りができましたか? 神野 関東インカレの10000mでは決していいタイムではなかったのですが、あの時は青学が久しぶりに1部に上がれた年で、ケニア人留学生も日本人も強い選手がたくさんいる中、大学で初代表だった僕が果敢に攻め、5000mを14分20秒ぐらいで通過した日本人トップ集団4人の中になぜか僕もいたのです。最終的に後半の5000mは15分かかり、29分14秒で14位という成績でしたが、原監督にはすごく評価していただきました。また、そのレースを見ていたコニカミノルタの方からスカウトの声が掛かり、卒業後に入社するきっかけになったので、あの関東インカレの10000mは僕の競技人生のターニングポイントでした。 注:コニカミノルタには2年間所属し、その後プロランナーになった。