「悔しさをエネルギーに変えて成長」【前編】 箱根駅伝〝三代目・山の神〟が振り返る快進撃の背景/神野大地(青学大ОB)
大正9年に創設され、昭和、平成、令和と4つの時代を駆け抜け、いよいよ第100回の歴史的な節目を迎える箱根駅伝。学生たちが繰り広げる2日間の継走は、多くの人々に勇気や感動を与え、「正月の国民的行事」と呼ばれるほど大きな注目を集めている。選手たちが並々ならぬ情熱を傾ける箱根駅伝の魅力はどんなところにあるのか。青学大時代に大活躍した〝三代目・山の神〟神野大地に、快進撃の背景を振り返ってもらった。(前編) 第100回(2024年)箱根駅伝 出場チーム選手名鑑をチェック! まだ無名選手だった高2の夏、原監督との出会い ――青学大時代に箱根駅伝で大活躍した神野選手ですが、青学大へ進学したきっかけは? 神野 原(晋)監督と出会ったことですね。高2の夏、チームの合宿で菅平(長野)に訪れていた時、たまたま青学も菅平で合宿をしていて、クロスカントリーコースで走っている僕の姿を見た原監督が「君の名前は? 5000mはどれぐらい?」と声をかけてきました。当時の僕は5000mが14分49秒ぐらいの無名選手で、原監督から「青学に入れる条件はまだ満たしていないけど、君は必ず伸びるから、ぜひ青学に入ってほしい」と言われたのです。その数ヵ月後に14分33秒のタイムを出したことで原監督が今度は正式にスカウトに来てくれました。その頃、他大学からもいくつかお話がありましたが、無名だった僕の走りだけを見て「こいつは伸びる」と思ってくれた原監督の下でやりたいという気持ちがあり、高2の冬の前に青学へ進学することを決めました。 ――青学大に入学後、部のムードは想像していた通りでしたか? 神野 いい意味での規律はありましたが、1年生だけがとても苦労するような規則や習慣はなく、とてもいいムードでした。僕の出身高である中京大中京(愛知)は陸上の名門で、短距離やハードルは強いのですが、僕の時代の長距離ブロックは県で2~3番手と特別強かったわけではなく、それほど厳しくありませんでした。そのため、大学で急に厳しくなったら僕は耐えられなかったでしょうけど、青学は変な上下関係もなかったので、「ああ、いい大学に入ったな」と思いましたね。 ――神野選手が入学した年は、数ヵ月前の箱根駅伝で青学大初の区間賞をエース区間の2区で獲得した出岐(雄大)選手が主将でしたが、先輩方の接し方はいかがでしたか? 神野 出岐さんや大谷(遼太郎)さんらが4年生でしたが、先輩方は皆さん優しかったです。寮では最初に出岐さんと同部屋になり、青学だけでなく「大学駅伝界のエース」と呼べる方と一緒に生活させていただき、ほどほどの緊張感はありましたが、出岐さんの生活スタイルや練習に向かう姿勢などを近くで学べました。 ――出岐さんからどんなことを学びました? 神野 何事にもまじめで、部屋ではよく本を読んでいて、夜は10時~11時には寝るようなハメをはずさないタイプでした。陸上って、生活が一番大事だと僕は思っていて、規律正しく生活することが競技のレベルアップにつながることを出岐さんから学びました。また、出岐さんは走る量も多く、各自ジョグの日でも僕の方が必ず先に寮へ帰っていましたし、4年生でエースの方が地道にたくさん走る姿を見て、こうやって練習を積み重ねることが大事だということも学ばせてもらいました。 大学1年目は良い思い出が一つもなかった ――神野選手は5000mで14分13秒(2011年高校ランキング30位)というタイムを持って青学大に入りましたが、チームの練習にはすぐに対応できましたか? 神野 タイムはそれほどすごいわけではなく、青学の同期の中でも久保田(和真、熊本・九州学院高卒)、小椋(裕介、北海道・札幌山の手高卒、現ヤクルト)に次ぐ3番目。都道府県対抗駅伝は愛知県の5区(8.5km/区間4位)を走らせていただき、先頭に立って久保田(熊本県代表)と競る経験もさせてもらいましたが、インターハイは5000mで予選落ち、全国高校駅伝にも出ていないですから特別強い選手ではなく、同世代のトップクラスには全然及ばない実力でした。 ――入学後の競技生活はいかがでしたか? 神野 1年目はいい思い出が一つもなく、ケガで走っていない時期もあり、箱根駅伝はエントリーメンバーにすら入れず、大学のレベルの高さを感じ、先輩方の偉大さというか、すごく大きく見えました。自分はそこには到底及ばないと思える1年目でしたね。 ――その一方、同期の久保田選手、小椋選手は1年目から箱根駅伝に出場していました。 神野 あの2人との実力差は入学していた時から感じていましたが、僕自身、1年目に苦労したからこそ「自分はもっとがんばらなければ」と思いましたし、1年目の試練がその後につながったような気がします。